46年の壁

広島・長崎ヒバクシャ証言集「想い」(2020.7)より

 広島編  柴田政一

 昭和20年本土決戦体制で、3月に特別攻撃隊員に選ばれマルレ基地、幸の浦の訓練が始まりました。6月には本土陣地である佐賀県に配属されたのでありますが、軍命により8月5日広島幸の浦に参り6日、当時の新型爆弾が投下されたのであります。
 そんな翌日私は、広島市内に入ったのです。確か海田市駅辺りから爆心地に向かったのです。火の手は大体収まっていましたが、あちこちから残火、煙が立ち込め一種独特の匂いです。真夏の太陽は無情に照り続け、蝉の声もなく、木立は葉が焼け枯れ木です。半倒れの家は中が空つぼで、 瓦が鯉の鱗を立てたように立っていたのを鮮明に覚えています。爆風のすさまじさを知りました。その庭先には防火糟があり、子供を背負ったお母さんが腰まで水につかり死んでいます。 18歳の上等兵は、全身に熱い電流を感じ立ち往生をして震え上がりました。
 隣の庭には大きな牛が鼻輪をっけ木に繁がれたまま倒れ、異常に腹が膨れていたことを覚えています。
 広島は川が多く土堤に集まった人が力尽きて死体となり、救いを求めて悲鳴を上げている姿、全く地獄絵図そのものです。「兵隊さん水を水を」とすがる負傷者。水を与えると死ぬというので与えなかったが、今尚後悔している始末です。どうして苦しんでいる重傷者に生きて戦えと!!
 そんなつもりではなかったが、唯、軍服を着ているのが恥ずかしかったことだけは確かです。
 母を守り銃後を守る学徒出陣が、逃げ惑う国民に何の力もない私でした。
 満員電車は焼け鉄の骨框の中に、半焼けの死体を乗せ、運転台に寄り掛かった裸体の女性は、5月まで休暇で市内を散策した時に手を振つてくれた女子挺身隊の彼女達でした。何たる無常な姿、必勝の鉢巻き姿は無残でした。爆心地に近づくに従い、死体の処理が急がれていたようです。担架に乗せようと頭と足を持つが、持ち上げようとすると肉がズルズルと裂けて困つている姿!!
 死体の集積地(河原)では、我が子、兄弟、親を求める狂気の肉親、狂いに狂つた地獄を見た私は、広島だけは二度と見たくもないし語ることもないと心に誓つたものでした。
 戦後42年、確かにその誓いを守りました。43年目に戦友会に出席し、当時調査に当たった2人の戦友が今尚苦しんでいることを知り、私にできることは何かと彼等に尋ねた時、被爆手帳取得のための手助けでした。私はそこで先ず自分が被爆手帳を交付される必要に迫られ、ようやく広島を訪ねることになりました。私は戦友を救えたことで広島訪問の目的を終え、今日の幸せな社会制度に感謝し、自分の行動にもささやかな誇りを持ち続けることにしています。手帳取得の3年後、戦友は他界してしまいました。
 私は戦争に正義は全くないと信じています。 日本の国土を焦土にして、国際法にもない「人道に対する罪」「平和に対する罪」で千数百名の処刑、60万とも70万とも武装解除の日本人を強制労働者として極寒の地に送り、6万人という餓死者を出して今尚一片の謝罪もない国があります。近隣には歴史の真実を歪めて、日本のODAで戦争資料館を作り、永遠の謝罪外交を要求する国もあります。
 一方国内では日本は加害者だから、加害展示館を作るべきだと主張する自虐史観の人もいるようです。
 宗教は人の心を救うためにあるならば、現世利益に目を奪われたり野放図に振る舞う現代人に対し、絶対に守らなければならない具体的行動を、教義を越えて行って欲しいのです。 お兄ちゃんが幼児の手を引いて殺す事件、 このような日本人の魂を失った心の救済をするのが、現世に生きる私達の責任だと思います。宗教の「少欲知足」を宝とする方々と共に、今後の日本の国造りに参画したいものです。