特攻ボート訓練と被爆直後のヒロシマ

田島 正雄さん(富山県被爆者協議会 会長)

 被爆者協議会の田島です。
 私は昭和3年生まれ、小学校の国語教科書には初めは「咲いた咲いた桜が咲いた」とあったものが、1~2年のうちに「すすめ、すすめ」と変わりました。支那事変の頃です。昭和16年に大東亜戦争が始まり、中学生だった私らは岩瀬にある工場に寝泊まりして石炭運びをやっておりました。

江田島で特攻ボート訓練中に

 戦況は次第に悪化し、私はお国の為と思い17歳で入隊し、香川県の小豆島にある「陸軍船舶特別幹部候補生隊」の、特に少年兵だけの「若潮隊」に配属され、4カ月の特訓ののち、広島・江田島の四五戦隊に派遣されました。その部隊は特殊なところで、長さ6メートルのモーターボートに250キロの爆雷を積んで体当たりする。ボートは敵の電波探知機にかからないようベニヤ板で、訓練は夜ばかり行っていました。
 そして8月6日の朝、兵舎の前におりましたら、突然ピカーッと光りました。朝なのにおかしいな、と思っていると、ドカーンという轟音とともに私の体もかなりの衝撃を受けました。蒲鉾型の兵舎の窓はすべて吹き飛び、これは何事が起きたかと思って広島の方向を見ると、あの、キノコ型の雲がゆーっくりと、むくむくと上空に上がってゆきました。11時ごろ、敵の新型爆弾である、とだけ知らされました。そして私ら四五戦隊中川中隊は、司令部のある広島の宇品に駆け付けました。

1日目は民間人の救出

 上陸用舟艇で宇品に揚がりましたら、係留場にたくさんの兵隊さんたちが頭から血を流して苦しんでおりました。私らは民間人の救助を命令されていましたので、大きな川にそって歩道を進み、そこに倒れている人や火傷を負っている人を運んで寝かせました。すぐ近くにあった広島工業高校が倒壊、4、5人で行き、10数名をがれきの中から救出しました。夕方になって民間人の救護にあたりましたが、私らが持っているのは水だけです。火傷の人たちは必死で水を求めてきます。兵隊さん、水くれーという声が至る所から聞こえましたが、軍の命令で水をあげることができませんでした。飲ませるとすぐ死ぬからだ、とのことでしたが、非常に胸が痛みました。
 暗くなるとつぶれた家屋からどんどん火の手が上がり、私たちのいた場所へも火の粉や煙とともに、今思えば原爆の灰が舞い降りてきていたと思います。1~2年前に私のところに広島大学の方がその時の灰の状況について聞きに来られましたが、当時は無我夢中で煙やら灰やらわかりません。夜になって炎の明かりを頼りにひどい火傷で膨れて青くなっている人たちを見回りましたが、朝になるとその人たちはみんな亡くなっておられました。本当に悲惨でした。

川幅いっぱいに溢れる遺体

 翌日は爆心地に向かいましたが、地面が熱く臭いも強い。大きな川の川幅いっぱいに、火傷で膨れ上がった人たちが、二重三重に重なって溢れていました。干潮で川の水が引いた後、川に入ってその人たちを陸揚げしました。しかしどれだけ運んでも、満潮になると何処からともなく人が流れてくるんです。私たちも休憩したいし腹は減る一方でしたが、それどころではありませんでした。その時一緒だった台湾出身の少年兵から、戦後しばらくたって手紙が来ました。「あの時、川の中から引き上げるのが大変だったなあ」と。3年ほど前NHKの記者が私のところに来た後、これから台湾に行くと言うので彼の名前を出したところ、まさに本人でした。

黒焦げの遺体を素手で運ぶ

 次の日、中心地に向かおうとしますが、至るところガレキでどの道を行けばよいのかわかりません。そこで市電のレール沿いに進むと電車があったので中を覗き込むと真っ黒に焦げた遺体だらけでした。しばらくして学校のグラウンドだったと思われる広い場所に来た時、そこに遺体を集めることになりました。
 その日から数日間、焼けるような炎天下で遺体を運び、焼くという作業が続いたわけです。男女の区別もわからないほど黒焦げになって、何かの陰とか窪みなど引っ込んだところに遺体はありました。少しでも爆風や炎を避けようとしたんでしょう。担架も戸板も、手袋もありませんから運ぶのは素手です。小柄な遺体を抱え上げた時、手にぬるぬるとした温かいものが伝わってきました。表面は黒焦げなのですが、お腹の腸や内臓はそのままの状態でした。本当にむごいことです。
 グラウンドはあっという間にいっぱいになりました。私たちの寝る場所もなく、遺体と添い寝でした。真夏で遺体が腐敗していく臭いは強烈でしたが、しまいにはまったく感じなくなりました。夜は焼却作業です。人間の身体を焼く炎が唯一の灯りで、そこに照らし出される情景が今でも脳裏に浮かび涙が出ます。どれだけ集めても、どれだけ焼いてもきりがない。そうした作業が何日も続きました。

下痢や歯ぐきから出血が

 幸いというか、水道は無事でしたので、夏ということもあり私たちは浴びるように飲みました。しかしその水は放射能に汚染されていたのです。5日目から下痢症状が出始め、歯ぐきから血が出ました。髪の毛が抜け始めたのはもう少し後です。私らはそれが原爆のせいだと思う由もありません。そうして6日目あたりで本隊へ帰還命令が出て市内を後にし、その2日目に玉音放送を聞きました。それから9月の半ばまでの間、私たちが訓練していた「マルレ」と呼んでいたボートを陸に揚げて焼却する作業をしたのち、復員できたわけです。
 私たち被爆者は、こうした悲惨な被爆体験を何とか語り継いできましたが、この夏二世・三世の会が発足したことで、これからも命あるかぎり続けていきたいと思っております。


(注)

ベニヤ板製の特攻ボート「お国のため」の命とは?(朝日新聞 8/12)

 太平洋戦争末期、飛行機だけでなく船による「特攻」が行われた。爆雷を積んだベニヤ板製の簡易なボート。訓練を重ね、死を覚悟していた若者たちは揺らいだ。「お国のため」に捧げる命とは何なのか、と。(岡本玄)
 瀬戸内海に浮かぶ江田島(広島県江田島市)。海軍の兵学校があったことで知られるこの島は、かつて陸軍の「水上特攻隊」の秘密基地でもあった。島の最北端にいま、その歴史を伝える石碑が立つ。(以下、略)


参加者の感想から

●二十二歳まで広島で育ちました。母は被爆していて、私は被爆二世です。小さい時から原爆の話ばかり聞いて育ったので、田島さんのお話を懐かしく、悲しい思いで聞きました。昨年からこの会に参加しています。富山に二世の会が出来たというので、是非参加せねばと思い、出席しました。

●私は、一九四五年七月に上海から引揚げ長崎に住んでいました。小学六年でした。被爆地から五Km離れていて幸い無事で、今日まで過ごす事が出来ました。この様な会に参加したのは初めてでした。有意義な催しに参加出来た事を感謝しています。

●祖父が長崎被爆で死んだと聞いています。富山に戻って死んだため、被爆者の認定を受けることができず、残された家族は苦労したとのこと。しかし、どんな状況で、どんなふうに死に至ったかは詳しく知らず、今思うと被爆者への偏見もあり、あまり話するような状況ではなかったのかもしれないです。なんとなく他人事でなく身近に感じています。これからも二度と悲しい出来事が繰り返されないよう願っています。

●田島さんのお話は、経験者でしか語れない貴重なお話の数々、テレビとかでよく拝見しますが、生のお話はやっぱり違います。聞くことが出来て良かったです。