講演「私の被爆体験と2019年国連に署名を提出」
~核兵器禁止条約の実現に向けて~

日時 2019年11月16日(日)
講師 藤森 俊希さん
    (日本原水爆被害者団体協議会 事務局次長)

*この講演会は、県内非核4団体が主催した、非核富山県宣言20周年記念シンポジウムの基調報告として行われたものです。
*県内4団体とは、「非核の政府を求める富山の会」「富山県被爆者協議会」「核兵器廃絶をめざす富山医師・医学者の会」「原水爆禁止富山県協議会」です。


講演はまず、藤森さんが用意したDVDの放映から始まりました。ナレーションと藤森さんの声が会場に流れます。

私の被爆体験

 (藤森)「1歳での被爆ですからはっきりと記憶があるわけではありません。しかしその情景が頭に浮かびます。いつも8月6日になると、母親が原爆投下当時のことを涙ながらに話してくれたからです。あんたらを二度とあのような目にあわせたくない、と。」
 (ナレーション)藤森さんは1944年、9人兄弟の末っ子に生まれました。そして45年8月6日、広島を、藤森さんの家族を原爆が襲ったのです。
 朝から調子が悪く、背負われて病院に行く途中、母親は飛行機の音だけでB29だとわかったそうです。その瞬間、耳をつんざく音と爆風。爆心地から2.3キロの場所で、吹き飛ばされた土手の下から這い上がって街を見渡すと黒々とした大きな雲と火の海。地獄の光景です。直撃は避けられたものの藤森さんはひどい火傷で、目鼻口だけ出した全身包帯姿ですぐに死ぬと思われていました。家族のうち8人が被爆し、4女の姉は爆心地から400㍍の場所でした。
 (藤森)「姉を探しに行っても遺体を見つけることができませんでした。おそらく川に入って流れて行ったのではないかと。何千人という人が遺体も見つからないままだったと思います。」
 (ナ)街は変わり果て、暑い夏で遺体にハエが飛び交いウジがわき、耐えられない悪臭が街を包んでいました。被爆当時広島には35万人の市民や軍人、その中には当時の植民地であった朝鮮や台湾、中国から強制的に徴用された人々も大勢いました。
 (藤森)「9月6日にファレルという米軍の原爆責任者が、『現在、原爆で死ぬべき者はすべて死んで、後遺症で苦しんでいる者は皆無だ』という声明を海外特派員向けに出しました。そのため、それ以後被爆者は放棄されてしまうことになったのです。」
 (ナ)原爆による死亡者数は現在も正確にわかっていませんが、1945年12月末までに14万人が亡くなったと言われています。そして、その後もなお原爆は被爆者に苦しみを与え続けているのです。
 また2世にも原爆の影響が広がっていきました。法律で被爆者には健康手帳が交付され、医療の本人負担分が原則免除されますが、2世には健康診断のみなのです。藤森さんの姉の次男は7歳のとき白血病で亡くなりました。
 (藤森)「被爆した家族の中でむごいことが起こっている。それに対して日本政府もアメリカも原爆とは関係がないという。これに私は言いようのない憤りを感じます。」

核軍縮から核兵器禁止条約へ

国連本部で行われた核兵器禁止条約交渉会議で演説する藤森氏

 (ナ)1946年、国際連合は核兵器の廃棄を提案するための原子力委員会の創設を決議しますが、米ソ対立で行き詰まり、東西冷戦もあって次々と核保有国が増えていきました。
 1970年、これ以上核保有国を増やさないということをめざし核不拡散条約(NPT)が発効しましたがこれにも大きな問題点がありました。
 (藤森)「NPTはもともと歪んだ条約です。5つの国の核保有を肯定し、それ以外の国との差別によって優位を得ようとするのは絶対におかしい。まったくの不平等条約です。そのことを心に据えておかないと前に進めません。もし最初に作ったアメリカが、平和のため核兵器をなくす先頭に立つよ、と言えば世界はその方向に進むと思います。」
 (ナ)2016年に核兵器禁止条約の制定を求める署名運動がスタートし、その翌2017年、歴史上初めて法的に核兵器を禁止する条約が誕生しました。国連の条約制定交渉の場でヒバクシャの思いを込めた藤森さんの演説は大勢の胸を打ちました。こうして被爆者を先頭にした長年の運動、非核の立場に立つ各国政府、そして国連がともに国際政治を動かしたのです。

 (藤森)「署名運動をしている時は、まさか次の年の2017年に禁止条約が決議されるとは思っていませんでした。2015年のNPT再検討会議で合意できなかったけれども、非保有国はへこたれなかった。2年間ですごいエネルギーだったと思います。」
 「この条約は50カ国以上批准すると国際条約として認められます。現在は33で、あと17。来年(2020年)5月のNPT再検討会議は、50を突破して迎えることができるよう、日本政府に働きかけていきたいです。」
 (ナ)条約が採択されたその年、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)がノーベル平和賞を受賞しました。この動きの中で忘れてならないのは女性の活躍です。交渉会議ではコスタリカ大使のエレン・ホワイトさんが議長を務め、国連事務次長で軍縮上級代表の中満泉さんが補佐しました。授賞式ではノーベル委員会委員長、ICAN代表、被爆者代表、登壇者全員が女性です。条約前文にも女性の役割が記されています。
 地球の安全を考えると核兵器はなくすべきです。世界から核の脅威をなくし二度と繰り返さないために、これからも藤森さんの活動は続きます。

NY国連本部に署名を届ける

高見澤日本政府代表部大使(当時)との懇談(10/9)

 DVD上映のあと、藤森さんは2019年10月、国連本部にヒバクシャ国際署名を届ける活動に参加したことについて話を続けました。
 10月9日に日本政府代表と懇談しました。相手は高見澤將林(のぶしげ)国連軍縮会議日本政府代表部大使(当時)です。防衛畑出身の高見澤氏は、条約交渉会議が始まった2017年3月27日、国連総会議場で『建設的で誠実な形で交渉に参加することは困難だと言わざるを得ない』と発言した人です。それ以降条約を検討する会議に、日本政府からは誰一人出席しませんでした。
 その日の懇談でも彼はにこやかでソフトな対応なのですが、言っていることは政府としてこの条約はやらないと、唯一の被爆国にあるまじき許しがたい発言を繰り返していました。懇談後の記念写真を見ると私だけが苦虫を噛み潰したような顔でした。
 10月10日は、国連本部内でオーストリア国連大使と懇談です。私の隣の女性はピースボートの畠山澄子さん、その隣が女優の東ちづるさんです。ヤン・キッカード大使は被爆者のたゆまぬ努力に敬意を述べ、『オーストリアは核兵器をはじめ非人道的な被害をもたらす兵器を許さないという、その議論の最先端に常に立っていたいと思っている』と発言しました。

 その日の夜、国連近くの教会で『被爆証言と音楽の夕べ』というコンサートが催されました。私の証言を畠山さんが同時通訳をしてくれました。」
 「そして11日、写真は一連のイベントのハイライト、1千万を超えるヒバクシャ国際署名の目録を手渡しているところです。左は国連総会第1委員会のヨレンティ議長(ボリビア国連大使)、隣は日本人女性初の国連事務次長・軍縮担当上級代表の中満泉さんです。
 ヨレンティ議長はこう述べました。『この場所で藤森さんと出会えたことはとても嬉しい。ボリビアは今年の8月6日に核兵器禁止条約に批准したことから、自分の国に誇りを持っている。核兵器は人類の存亡に関わるものであるから、廃絶を目指しこれからも行動していく。』 そして議長は『ぜひ僕にもサインをさせてほしい!』と、その場で署名をしてくれました。
 中満軍縮上級代表は、『いつも署名を提出しにニューヨークまで来てくださってありがとうございます。核廃絶や軍縮を前に進める上で被爆者の証言がとても重要です。藤森さんも身体に気をつけて、また日本でお会いしましょう。』と励ましてくれました。

政府の「核廃絶」国連決議案の問題点

 最後に、私たちが帰ったあとの10月20日に、日本政府が国連総会第1委員会に提出したあらたな決議案の内容が、これまでのものより大幅に後退していることについて話します。
 日本政府の決議案は、これまでの核不拡散条約(NPT)再検討会議の合意事項に関する記述の大半を削除し、北朝鮮の核・ミサイル問題については大きく取り上げ、核兵器の廃絶を『究極のゴール』として先送りしています。核保有国による核廃絶の『明確な約束』という文言は削除され、核使用の非人道性に『深い憂慮』を示す記述も消え、核兵器禁止条約にはまったく言及していません。
 日本政府は1994年以降、毎年核兵器廃絶決議案を提出し、採択されてきましたが、2017年の核兵器禁止条約成立以降、賛成国が減ってきておりアメリカも拒否しています。政府は核保有国との橋渡しの役割と言いますが、これら後退した内容では唯一の戦争被爆国である日本の存在意義が問われるものといわねばなりません。