被爆体験を聞く会を開催(8/2)

 8月2日(月)、当会は富山市・電気ビルにおいて「被爆体験を聞く会」を開催しました。壮絶な体験をお話しいただいたのは、富山県被爆者協議会の岸川義一さんと田中春子さん、水野耕子さんの3人です。

県内被爆者の6割が入市被爆
 県内の被爆者は現在97名、そのうちの約6割が、軍の命令で広島や長崎で被災者の救出にあたった人たちです。
「兵隊さんたちは、つらい仕事をさせられながら終戦後ふるさとに帰ったあと原因不明の病気で次々と倒れていった。しかし私たちと違って直接被爆していないという理由で、国はずっと無視し続けて来たんです」と語る水野事務局長。実際、岸川さんの手帳交付は今から約20年前でした。

急に広島へ向かうよう命じられた(岸川さん)

 「無線通信手として和歌山の部隊に配属されていたとき、軍から急に広島に向かうよう命じられた。8月9日、よくわからないまま広島駅に着いたとたん、辺りは無数の負傷者で川には遺体があふれていた。今でもあの時の臭いの記憶が頭から離れない。目的地の電信電話局の中も遺体だらけで、瓶(かめ)に入れてひたすら運び出した。夜になると荼毘の炎があちこちで見えた。
 ひどいやけどで皮膚が垂れ下がっていたり、わずかに水滴が落ちる水道の蛇口に群がっている被災者を前にして、衛生兵ではない自分たちはただ見ていることしか出来なかった。そのまま終戦を迎え、いったん戻った和歌山で軍は解散。大阪の八尾まで歩き列車で富山に帰ることができた。」

親しい人にも話してこなかった
 これまで岸川さんは広島の体験を近所の人や親兄弟にもあまり話してきませんでした。「実際に体験したものでないと、わかってもらえない気がした」「広島や長崎ならまだしも富山では被爆を言うだけで色分けされる」
 しかし被爆者が高齢化し、次々と亡くなっていくなかで、比較的元気な自分が伝えておかなければ…という思いが強くなったと言います。そして今年初めて新聞の取材やアンケートに応え、オバマ大統領と鳩山由紀夫前首相へ被爆者としての思いを綴った書簡を届けたそうです。
参考:長崎・広島ヒバクシャ証言集「想い」より

爆心地からわずか1.4㎞で被爆(田中さん・写真左)

 「14歳のとき長崎の三菱兵器工場で被爆、爆心地からわずか1.4㎞だった。爆風でとばされ、周りにいた仲間はほとんどが死んで、目を覆いたくなる惨状だった。ガレキの中を這い出し、無我夢中で家に向かって走った。辺り一面は火の海で、死体が山のように重なり合っていた。今でもときどき夢にみる。
 若い頃から甲状腺や心臓に異状があると言われた。今は乳がんを患っている。診察したお医者さんは、あなたが生きていることは奇跡に近い、と口を揃えて言っていた。結婚して流産を繰り返し、やっと一人授かったが、主人は原爆の遺伝を心配した。私は何としても育てると説得し、男の子を産んだ。今は立派に育ったが、小さい頃よく鼻血を出し不安で仕方がなかった。
 46年間、誰にも話したくなかった。苦しみ悶えて死んでいった人たちを思い出すと涙で胸がいっぱいになる。一度医療生協の集まりで話してくれと言われ出かけたが、嗚咽が止まらずただ泣くことしかできなかった。」

今年初めて話す気になった

 今まで新聞などの取材はかたくなに断ってきた岸川さんと田中さん。世間の被爆者に対する偏見や誤解が少なくなってきた一方で、悲惨な記憶が薄れ、戦争や核兵器を正当化する若い世代の風潮に、「今話しておかなければ…」と思うようになったとのことです。
 核兵器廃絶をめざす富山医師・医学者の会としては、今後も県内の被爆者の体験を聞く会を継続していく方針です。
参考:長崎・広島ヒバクシャ証言集「想い」より

2010年NPT(核不拡散条約)再検討会議)
ニューヨーク行動報告会

 被爆体験を聞く会の前に行われた「NPT再検討会議ニューヨーク行動報告会」は、富山代表団の一員として参加した田村有希医師(富山協立病院)が参加した感想を述べ、団長の中山雅之氏がスライドを使って今回のNPT再検討会議の意義と成果について解説しました。
 田村医師は5月1日から5日間ニューヨークに滞在、街頭署名活動やパレード行進に参加しました。「用意されたマニュアルがあって、英語の苦手な私でも結構署名してもらえた」とのことですが、原爆投下は正当だったと議論してくる市民が多いのもニューヨーク。運がよかっただけかも知れません。
 日本からの署名の到着を待ち続けたカバクチュラン議長が、確かに核廃絶の国際世論の流れはあるが、日本人が先頭に立って声をあげないと消えていってしまう、と言われたのが印象的だったそうです。