被爆体験

広島・長崎ヒバクシャ証言集「想い」(2020.7)より

 広島編  田島正雄

 思い出せば運命の日、昭和20年8月6日。私は江田島幸の浦にある陸軍暁部隊で軍務に就いていた。(特幹生)三期生
被爆直前
 幸の浦の朝、海は静かで空は青く澄み快晴であった。
原爆投下の驚き
 私が営舎内で作業中に、突然「ピカー」と異常な「光り」が辺り一面に覆い被さり、顔面に一瞬熱さを感じ思わず「アーッ」何事ぞ!!同時に「ゴー」と物凄い大音響と共に猛列な爆風が大地を揺るがせた。
 木造の丘舎が揺れ、天井は落ち、窓は吹き飛んだ。 瞬間空爆だと判断し、 あわてて兵舎裏にある横穴式防空壕に避難する。
 広島の空は青空から一面曇り空に変わり、今まで見た事のない雲が「モクモク」と立ち昇り「キノコ」状となって見る見るうちに頭上へ覆い被さってきた。
 隊長から、これは敵の新型爆弾であると知らされた。
出動命令
 午前11時頃救援活動のため広島へ出動命令、我が中隊は幸の浦からマルレ特攻艇と大発上陸用舟艇に分乗し全速力で海を渡つた。
宇品港の情況
 宇品港では兵隊は血まみれになって死んでいる。傷つき地に倒れている兵、衣服は破れ半裸体で焼けただれた顔、皮膚は水ぶくれの人達で「ゾッ」とする物凄い有様であった。
市中の情況
 市中へ向かうにしたがって情況は益々ひどく、 いたる所民家は全壊し死傷者が道路に横たわり呻いている。見るも無残な様相でただただ驚くばかり。
救援活動
 全員で力を合わせ救援活動に取りかかる。学校(工業学校) がつぶれている中に潜る様にして入り生存者救出作業、なかなかはかどらない。担架は無く戸板を利用して負傷者を運ぶ。 作業中火災が近づいて来ての消化活動。人力ではどうにもならず、 いつの間にか日が暮れる。夜は火災に追われる怪我人を安全な場所へ移す。緊追した気持ちでの救出が続いた。
 火災が辺りを明るくする。一睡もせず十数名の負傷者の手当て、看護に就く。その甲斐なく、呻き声で「兵隊さん水をくれ」と叫ぶ人。やがて一人二人と夜明けまでに全部の人達が亡くなった。
 辺りが明るくなって判ったことだが、横の川には数多くの死体が浮かんでいる。体が倍位にふくれ、皮膚は青色に変わっている。実に無残であった。
爆心地の情況
 爆心地に近づけば辺り一面は焦土と化し、地面は熱く焼け進入出来ない有様。道路には無数の死傷者。露出した体は焼けただれ、皮がむけ肉がむき出している。手足を持てば「ズルズル」と皮膚がすべりむける。 私達は手袋もなく素手で作業を行つた。
 最もひどいのは、黒く焼けこげ手足がとれて男女の区別もつかない。体に触れれば生々しい内臓が「ダラダラー」と焼土へ垂れさがる。これを見ながら休む暇もなく死体の連搬、 夜は死体と共に野営であった。
体の変調
 心を引き締め夢中で時間のたっのも判らないまま3~4日過ぎた。その頃体調が変わり下痢が続いたが、もう平常の感覚でなくそれ程気にもならなかった。
任務遂行
 やがて救援活動も終わり幸の浦へ帰隊し、 まもなく終戦を迎え無事復員した。
 戦後48年当時少年であった私も時の経過と共に今では記憶も薄らいだ。
 終わりに当たり、今後二度と戦争のない様に世界の平和を念願しっっ、被爆で犠牲になられた方々の御冥福を心からお祈り申し上げる。