生と死のはざまで -浮んだ母の顔

広島・長崎ヒバクシャ証言集「想い」(2020.7)より

 長崎編  太田安子

 終戦直前に襲ったあの魔の爆弾の限りなく恐ろしい出来事から、もう半世紀近くが過ぎ去ろうとしている。
 不思議なことに私の記憶には、辛うじて助かり家まで辿り着いた以外は残つていない。逃げる途中の状況は、きっと常識では考えられない生き地獄が広がっていたに違いない。しかしそこの部分だけは私の記憶には残っていない。他の被爆者の方達の話や体験記等を読んでもその地獄絵は私にはどうしても思い出せない。きっと人間は自分自身にとって生涯の中で二度と遭遇したくない出来事は、自分の心の中からその時の記憶を消し去りたいという本能的なものがあるのかも知れない。

 原爆が投下されたあの日は、雲一つない空に真夏の太陽が降り注いでいた。
同じ兵器工場の事務所に勤務する学徒動員の友達と一緒に、民間の人家の井戸まで貰い水をする為に工場近くの道を歩いていた。警戒警報も解除になっていたので、私達二人は何かお喋りをしながら歩いていると、小さな爆音が聞こえてきた。その爆音が徐々に大きくなり私達は空を見上げた。その瞬間キラキラと光るB29が急降下してきた。一瞬身の危険を感じ近くの小さな空き家に飛び込んだ。
 幸いその家は政府から強制疎開させられた空き家のようだった。建具らしいものは何もなく、私達は一気に走り込んだ。余り早く走ってその家の裏に抜けてしまい、 慌てて逆戻りした瞬間カメラのフラッシュを浴びたような青白い光を感じたのが最後だった。

 どれ程の時がたったのかふと気がつくと私の体は下半身が壊れた家の壁に抑えつけられ、上半身と両腕は狭い空間ながら動かすことが出来た。しかし抑えつけられた下半身は全く動く事が出来ない。足の先のほうで熱さを感じた。火が私の体を徐々に焼き尽くそうとしているのかだんだん記憶がはっきりして来るにつれて、すごい恐怖心が私を襲う。
「そうだ、あの時一緒に飛び込んだ友もこの近くに居るはずだ。」「伊藤さーん居るー」「中岡さーん、助けてー」 一刻も早くこの場所を抜け出さなければ死につながる。母の顔が浮かんでは消える。自分が死に直面していることをしっかり受け止めた。
 泣き叫ぶ友に「泣いてばかりいても、このままではうち達死ぬよ。誰か来たらその時は大声で助けてーと叫ぼうよ」と励まし合った。私達は耳を澄ませ心を落ち着かせて、まず自由になる上半身の置かれた空間を見回す。幸い私の頭の上は家が壊われた時だろうか柱が倒れかかり、 それを敷居が飛び上がってしっかりその柱を支えている。そのすき間から明るい日射しが見え、抑えつけられた下半身を動かそうとすると頭の上の壁土がバラバラと頭に降りかかる。私の命はもうすぐ消える。目をつむる。そして耳を澄ます。

 どれ位の時がたったのだろうか。人の歩く下駄の音が聞こえる。「伊藤さん、いま人が来るよ。もっと近づいて来たら二人で助けてェと叫ぼうよ」 二人で励まし合う。 足音は確かに近づいて来る。
 「助けてェ、私達はまだ子供だ。若すぎるよ死にたくない。助けてくれないと呪い殺すよ」私のロから想像もつかなかった言葉が次々に出てくる。 きっとその叫び声は聞く人にとっては鬼気さえ感じたと思う。
 足音は真近な所で止まり、その瞬間「よし、助けてやる、いま助けてやるからしっかりしろ」まさに地獄で仏とはこのことであろう。
 家の下敷きからやっと助け出されたのは、 それからどれ程後だったかわからない。私は不死鳥のようにしっかり立ち上った。
「あれェ、工場がない」真つ黒に焼け焦げた鉄骨だけが曲がりくねりながら建つている。 その間からずっと遠くの景色が見える。

 「おじさんありがとう。」ふと見るとその人の顔から血が吹き出ている。鼻が無い??
 「あんた達は若い、私を置いて逃げなさい」一瞬その人が仏様に見え、「ありがとう」もそこそこに私達は山を目指して逃げる。途中壊れた家々の下敷きになった人の助けを求める叫び声が聞こえる。 一瞬立ち止まるが、次の瞬間友と一緒に唯黙々とひたすら山に向かって逃げる。山の上は負傷した人達で埋まり、うつろな眼差しでしゃがみ込んでいる人、 ただ忙然と立ち尽くしている人、 山の防空壕も満員で無理して入ろうとすると「若い者は駄目」と弾き飛ばされてしまう。
 友と二人、仕方なく山から追われるように唯夢中で逃げ、どうにか港に出るが対岸にある長崎市内に行かねば火の手が追いかけてくるという恐怖心で先着順から小舟に乗る。
 二時間程も過ぎた頃、舟に乗せてもらい、その夜は山の手にあるお寺に泊めてもらう。
 高台から爆心地の方向を見るとそこは火の海であり、きっと一晩中燃えていたに違いない。もしあの時助け出してもらえなかったらと思うと足がガクガク震える。諌早の母の所に着いたのは被爆してから二日目の昼だった。

 家の外に飛び出て来た母は、私を何も言わずに抱きしめてくれた。私は安心したのかそのまま気が遠くなり、ふと気がっくと布団の中にいた。母の心配そうな顔が私をじっと見つめていた。一ヶ月余り寝たり起きたりの生活が続いた。「安子ちゃん、学校はどうするね」「嫌、長崎に戻るのは嫌。」長崎のあの恐しい体験は日夜頭から離れず、長崎はもはや私の行く所でないと思っていた。その後大村の女学枝に転入し、長崎に行ったのはそれから一年程後のことだった。

 被爆の後遺症を心配し続けてくれた母も、今はこの世にいない。親孝行も出来なかったが、幸運にも生きてきた私は、母の生きた齡よりも一日でも永く生きることが目標であり、被爆体験者としての課題である。