被爆体験証言「核兵器廃絶、恒久平和への道」

広島原爆孤児、被爆体験証言者  飯田 國彦

 私は、広島で3歳の時に被爆し、家族4人を失い、原爆孤児となりました。現在、広島の公益財団法人広島平和文化センター委嘱の被爆体験証言者をやっています。
 本日は、今年5月のオバマ大統領の演説に刺激を受け、本当の原爆の悲惨さというものをお伝えしたいと思っています。実は、今まではあまり悲惨なことを言いますと、聞いている方が気持ちが悪くなられたり、逆に伝わりにくいのではないかということで、遠慮をして事実をちょっと柔らかく包んで伝えるようにしてきました。しかし、やはりそれではまずいなと感じ、今日は本当の悲惨さをお話しさせていただきたいと思っています。
 お聞き苦しいところがあるかもしれませんが、それがやはりこれから核兵器のない社会をつくっていくという意味で価値あることだとご理解いただければと思います。(画像はクリックで拡大します)

1.私の被爆体験

被爆の瞬間
 私は母の実家(爆心地から900m)で被爆しました。
 被爆の瞬間ですが、ピカッと目がくらむ閃光ののち、ものすごい爆風で高く吹き上げられました。長い間2階から飛ばされたと勘違いをしておりましたが、それくらいずいぶん長い間空中を遊泳していたように感じました。私が原爆に巻き込まれた地点の風速は、秒速140mと言われています。
 飛ばされて落下したところに、家がミシッと音を立てて崩れて覆いかぶさってきました。一家全員が生き埋めになりました。きのこ雲で辺りが真っ暗になり、まったく何も見えませんでした。「おかあちゃん、たすけて!」とボクは叫びたかったのですが、声がでませんでした。
 その後も、毎日夢の中にその場面が出て、いつも助けてもらいたい時に声が出ないところで目が覚めるようになります。気が狂うのではないかという恐怖がそれからずっと続いています。
 生き埋めになったあと、祖父が家の下から這い出し、私たちを掘り起こしてくれました。そこから大急ぎで逃げようとなりましたが、家の中で飛ばされたため誰も靴を履いていません。あたり一面は瓦礫で、次々と燃えていきましたので、近くの橋まで逃げるのに半日もかかってしまいました。
 当時の住吉橋東詰めはものすごい人数でしたが、この絵は人数を省略して描かれています。左の方に、真っ赤な腕を前に出している人がいます。この人たちは服が焼けてなくなり、皮膚もはがれて垂れ下がっています。ほかの人も手の赤いところがありますが、みんな真っ赤な火傷をしていました。
 その人たちが橋に到着する前にバタンと転んで亡くなっていきました。着くと同時に亡くなる人もありました。
 この絵は翌8月7日朝の様子ですが、こちらも本当はもっと多くの人がいました。皆同じような顔、顔が膨らんだ状態で多くの人が亡くなりました。兵隊さんが遺体を運んでいますが、遺体は身体が真っ黒で上半身しかありません。

母と姉の原爆死
 私は時々、原爆の話をするときに当時の3歳に戻ってしまうことがあります。そのため、時々ボクというのが入ってしまいます。
 ボクたち家族は、広島から宮島へ逃げ、それからさらにもう少し田舎の方へ逃げました。そこで母と姉は力尽きて、帰らぬ人となりました。母は25歳、姉は4歳、頭の毛はすべて抜け、身体は青黒く変色し、足が壊死していき、9月の初めに亡くなりました。
 放射線は生きた人間の細胞を次々と死滅させます。一般的に病気で亡くなる場合、心臓が止まったあとに細胞が死んでいきますが、原爆で亡くなる場合は、先に細胞がどんどん壊死していき、そのあとで心臓が止まって亡くなります。多くの人は足が壊死し、そこからまだ生きている身体の部分にウジがわき、そして亡くなりました。
 ボクも母とおなじように髪は抜け、全身が真っ黒になりました。74歳の今でも唇は黒いままです。しかし、僕の場合は足が壊死しませんでした。
 「どうしてボクだけ助かった?」これはよく聞かれることですが、ボクは母や姉におんぶや抱っこをされて疎開したので、体力が残されていたのではないか。わずかな食べ物を食べさせてくれたので、栄養状態が3人の中では比較的良かったのではないか。それが一人だけ生き残った原因ではないかということで、母と姉に感謝の気持ちでいっぱいです。
 ただ、ボクは左腕、顔などにガラスが刺さり傷ができました。ものすごい爆風によりガラスが非常に体の奥深く刺さっていたので、小学校5年のときにやっと傷口がとじました。また、胃腸や心臓が弱く、いつもめまいがしていました。座るのがしんどいので、よく寝転んでいました。

6歳まで生死の境をさまよう
 母の死後は、父方の祖母に育てられることになりました。祖母は田舎に疎開していたのですが、8月7日の朝から広島に来てボクたちを探し回ってくれていました。その時は、もうボクたちはそこにはいなかったのですが、膨大な数の遺体、うつぶせになっている遺体はひっくり返しながら、顔をのぞきながら探してくれました。しかし、このことが原因で、祖母は原爆投下から3年後、ボクが小学校に入る前に亡くなりました。

病弱な小学生
 祖母の死後は、叔父夫婦が養父母になりました。
 小学生時代は、下痢、頭痛、貧血、めまいが続き、年に何度かは心臓が弱って、雨戸を閉めて寝たきりで過ごしました。その都度雨戸の節穴から入ってくる光を見ながら一日一日を過ごしました。クラスで背は一番低く、かけっこはいつもビリでした。キャッチボールや縄跳び、跳び箱などは一切できませんでした。勉強も宿題も全然できませんでした。
 身体の具合が悪い状態はずっと続き、健康を保ちながらといいますか、少しでも健康になるように注意をしながら勉強や仕事を頑張るという生活を現在まで続けています。
 私の病歴をひと言で言えば、病気の製造卸問屋のような状態です。貧血状態、異常なしの時でも白血球も赤血球もそしてコレステロールも下のラインぎりぎり。いつも少ないという状態でした。小学6年生の時も一番背が低かったのですが、その原因として、子供のころからGH(growth hormone)という成長ホルモンの分泌異常があったのではないかと言われています。最近は、脳腫瘍ですね。現在22ミリのものの他に、15ミリのものが新たに見つかりました。

2.原爆の実相

爆心地~2kmの本当の悲劇
 原爆の実相についてお話します。まずは爆風ですが、爆心地0mのところでは430m/秒。原爆ドームの付近(爆心地から160m)は、だいたい200m/秒でものすごい爆風です。爆心地から1kmのところがボクが爆風で飛ばされたところです。大竜巻の2倍以上と言われる爆風です。
 次に、熱線。爆心地が3500~4000℃。鉄がドロドロに溶ける温度の2倍です。爆心地から100mのところで2000~3000℃。
 近くの小学校では、校庭に先生が4人、そして児童たちが並んで立っていましたが、ものすごい熱線を受けて、朝礼の列のままうめき声をあげる間もなく焼け焦げて、白骨化したそうです。遺体はこの絵の状態でしばらく放置されたままになっていました。
 放射線量は、爆心地は2000万mSv、ボクが原爆を受けた900mのところは11,640mSv。聞いたことのないほどのものすごい放射線量でした。

原爆ドーム内の悲劇
 広島県で最も大きかった建物が広島産業奨励館(現在の原爆ドーム)でしたが、それがものすごい爆風によって屋根も天井も床もひとかけらもなく破壊され、残ったのは特に頑丈に作られた壁の一部だけでした。
 原爆ドームの中にいた人はどうなったのか。頭は割れ、目玉は飛び出し、首はちぎれ、手足はバラバラになって即死状態でした。そしてその遺体もすぐに焼け焦げ、白骨化して原爆ドームの中に残されました。
 また、原爆ドームのすぐ隣にあった国の役所の中には、50人余りの人が働いていましたが、遺品も何も残ることなく、全員が即死されました。

爆心地から少し離れたところの被害
 被爆直後の人たちが幽霊のように手を前に出して歩いている絵を見たことがあるかもしれません。あれは、腕の肉と腹の肉がくっつかないようにするためです。皮膚がないので、手を下げると腕と腹がくっついてしまうのです。午前11時頃に降った黒い雨を飲んだ人もいました。防火水槽に身を沈めた親子もたくさんいました。水を求めて川の中に次々と身を投げていきました。
 この絵は、爆心地から1.3kmほど離れた橋の下ですが、服は燃え、皮膚もはがれた状態で亡くなっていきました。こういう状態の遺体の山のようなものがあちこちにできたわけです。
 現在、広島平和記念公園内では、原爆供養塔というものがあり、名前のわからない7万人の遺骨が収容されていますが、現在も遺骨や、遺骨を通り越して灰になってしまっている、そういうものがあちこちから発見されています。

ヒロシマの被爆死者
 広島の被爆死者の数は、被爆直後からその年の年末までの間で14万人にのぼりました(内訳は次頁参照)。
 放射線によって「一度傷ついた染色体」は直後には細胞が生存を諦める「アポトーシス」を引きおこしましたが、その後は染色体の変異によって白血病や癌になったりして次々と亡くなっていったわけです。
 原爆の子の像のモデルになった佐々木禎子さんのように、原爆から6~7年後頃より多くの被爆者が白血病、10年後頃からはガンを発症し始めました。
 原爆投下から70年が経ち、原爆の直接の被害というのは下火になるのかと思われていました。しかし、現在でもまだ治療法がみつかっていない、第二の白血病とも言われる骨髄異形成症候群(MDS)によって広島でも長崎でも多くの被爆者が亡くなっています。投下直後の14万人を含め、2016年までに30万人が亡くなりました。当時の広島の人口が35万人ですから非常に多くの方が亡くなったことがわかると思います。
 また、被爆者の心の問題として、ボクのようにいまだにトラウマから抜けきれない被爆者が多くいます。亡くなった被爆者も白血病やガンを患うと同時に原爆ノイローゼを併発して亡くなっています。

3.平和への道

 現在は、原爆の恐ろしさというものを30%、50%くらいしか知らない人たちが核軍縮などを協議しているというのが実態ではないでしょうか。原爆の本当の怖さというものを見た上で、あるいは聞いた上で判断をしてもらいたい、これが平和への道の手段だと思います。
 世界中の為政者、指導者は広島へ来て、本当の原爆の悲惨さを見た上で平和について議論をしていただきたい。平和のあり方を探っていただきたい。
 世界には、いまだ15,700発の核兵器があります。その一つひとつが、広島原爆よりはるかに大きな原爆です。もしそれが事故で爆発したら、あるいは落とされたら、あるいはテロに使われたら、1千万規模の人々が亡くなるのではないかと言われています。人類が絶滅する恐れがあるわけです。ぜひ原爆の本当の悲惨さを認識し、核兵器廃絶に尽力いただきたいと考えています。

オバマ大統領広島演説の意義
 今年5月、オバマ大統領が広島を訪問し、演説をされました。その内容について触れさせていただきます。
 今回の演説の中で、「原爆は人類が自らを破壊する手段である」「目の前の光景に困惑する子どもの恐怖を自ら感じる」「あの恐ろしい戦争、その前後に起きた戦争で殺された全ての罪なき人々に思いをはせる」と述べたことに意義があると思っています。

アメリカ国内の定説を修正・否定
 演説では、日本の男性、女性、子供たち、朝鮮半島出身者、捕虜となっていたアメリカ人を追悼する、と述べました。アメリカ国内では原爆は広島の軍事施設を攻撃したので、死者のほとんどは軍人であると発表されているのですが、それをアメリカの大統領として初めて否定したわけです。さらには、原爆による犠牲者は10万人を超える、と話しました。これもまた意義あることです。アメリカ国内では原爆の犠牲者は71,500人と公表されています。アメリカの定説を否定したわけです。
 また、「8月6日の記憶は、道義的な想像力の糧となり、われわれに変化をもたらしてくれる」と発言しました。
 今回、被爆者の多くがオバマ大統領に対して謝罪を求めない、と言ったことで広島来訪が実現したわけです。オバマ大統領は謝罪をはっきりと明言はしませんでしたが、この道義的な想像力が糧になる、という部分がオバマ大統領らしい、控えめではありますけれども、謝罪の言葉の一種であると私は捉えています。