被爆者の思いを伝える橋渡しを

小島 貴雄さん(富山県被爆2世・3世の会 会長)

 私の父も、今ほどお話しされた田島さんとほぼ同じ状況でした。
 学徒で招集され、フィリピンで訓練中たまたま昇級試験に受かって本土に戻りました。残った仲間はほとんどフィリピン戦線で戦死したと聞いております。
 日本に戻った父は訓練中にたまたま肺を患い1カ月ほど入院したため、訓練生として1期遅れました。病気の前に同期だった仲間は沖縄戦線に赴いて、ほとんどの方が命を落としたそうです。そんな仲間を持った父です。
 昭和20年6月から父は、下士官として広島で特攻ボートの訓練をしておりました。そのまま戦争が続いていれば、やがて自分も特攻として命を落とすという覚悟であったと思います。そんな父が8月6日に江田島で原爆投下に遭遇し、広島市内に入り、負傷者の救護やおびただしい死体の焼却という作業に携わりました。

父の強い思いを知ったからには

 しかしこんな大変な思いをしてきた父の思いを引き継いでこなかったのがこれまでの私でした。たまたま定年退職で時間ができ、父と被爆の話をすることがありました。
 フィリピンで死んでいたかもしれない、沖縄で死んでいたかもしれない、広島では爆心地に近いところに入ったけれども幸い原爆症が現れない状態で今日いるということ。たまたま生かされている命、自分が感じたことを一人でも多くの人に知ってほしいという強い思いを持っている父を、60歳になって初めて知ったというのは恥ずかしい話です。
 そんなとき田島さんを始めとする被爆者の方たちから、自分たちの叫びを広めたいけれどももう年齢的にきつい、助けてほしいという声が届きました。私は、自分で良ければ協力を惜しまないという気持ちで、会に参加させていただきました。
 二世・三世の会としては、被爆者の叫び、手記の補足作業をすすめながら、まだ訴えておられない方たちの声を収集し、これから学ぼう、追体験しようという人たちに、身近にこんな人たちがいたということを伝える橋渡しをする使命にあずかりたいと思っているわけです。われわれ二世、三世だけでなく、関心のある方たちの協力を仰ぎながら、再び核兵器の惨状が起きないよう微力を尽くしてまいりたいと存じます。


(参考)
県内二世・三世の会発足 会長の小島さん「私たちの使命」(北日本新聞 8/14)

当時の資料を手に、父親の六雄さん(右)と戦争の記憶を語り合う小島さん

(前略)会長になった小島さんは、父親の六雄さん(93)が原爆投下直後の広島市に入った。六雄さんは部下約10人を率いる陸軍の小隊長で、同じ中隊には田島さんもいた。小隊は初日こそけが人の救護に当たったが、2日目からは死体を燃やすのが任務になった。
 広島の街には幾本もの煙が立ち上がり、六雄さんたちは夜になると死体を焼く火で手元を照らして食事を取ったという。(以下、略)