被爆体験証言「平和への道」

飯田 國彦 氏  広島爆心地900mの「ヒバクシャ・孤児」

NPO日本交流分析協会理事北陸支部長
富山ユネスコ協会副会長,心理カウンセラ-
富山福祉短期大学看護学科非常勤講師

1.原爆の悲劇・実相

原爆の実相を伝えるのが使命
 私を含め「ヒバクシャ」の使命というのは、自身の被爆体験を語るのはもちろんですが、原爆の実相というか、原爆というものが実際にどんなに悲惨なものかを伝え、そのことによって核兵器の廃絶をめざすことだと思います。そこで今日のお話は前半に「原爆の悲劇・実相」、後半に私の被爆体験をお話して、もし時間に余裕があれば将来に向かってどうしたらよいのか、また福島原発からの復興についてもふれたいと思います。

爆心地の悲劇
 左側の建物は広島の産業奨励館で、当時市内でもっとも大きく、立派でした。これが右のように一部だけが残り、中にいた多くの人たちは一瞬にして灰になったというのが現実です。下段左は高熱によって溶けた瓦、右は燃えるものはすべて無くなってしまった広島です。爆心地の爆風の温度は3千数百度、鉄、ガラス、瓦をも溶解しました。人間は瞬時に「白骨化」というより、あまりに高温のために骨の形をとどめず、ドーム内の遺品は腕時計が1個のみだったのです。

なぜ幽霊のように手を前に出すのか
 爆心地周辺では、光熱によって衣服は瞬時に消え去り、皮膚は剥がれて垂れ下がった。皆さんも何かでご覧になったことがあるかと思いますが、被爆直後の被爆者が幽霊のように手を前に出して歩いているのは、腕の肉と腹の肉がくっつかないようにするためです。皮膚がなくなったので、手を下げると腕と腹がくっ付いてしまうのです。人々は水を求めて、川の中へ次々と投身して亡くなっていきました。
 学徒動員で行進中の女学生は、原爆によって周囲が真っ暗になり、目標とするものが何もないので、迷子にならないように手をつないで行進しました。しかし、繋いでいたはずの手の皮がむけて、散り散りバラバラになってしまった。これはたまたま学徒動員を休んでいて、只一人助かった関千恵子さんという方の証言です。

放射線量・爆風・温度は
 その放射線量はどうだったのか。爆心地から100㍍地点で43万5千ミリシーベルト、私の被爆した900㍍は1万1640ミリシーベルトでした。爆風は100㍍では秒速277㍍というとてつもない速度で、1キロ地点で秒速132㍍、強い竜巻の2倍以上です。
 温度は爆心地では、3500~4000度で溶鉱炉の2倍以上、鉄も綿菓子のように溶けてしまう温度です。100㍍で2000~3000度、1500㍍地点でもほとんどの物に着火し、直撃を受けた人々は致命的な熱傷を受けたというのが実態です。

原爆で亡くなった人々の数
 ヒロシマでの原爆によって、その直後から年末までに亡くなった人は、14万人±1万人であると公表されています。投下直後の死因は、爆風・高温によるものが大部分で、その後は放射能による死者が増え続けました。
・爆風によるものが約75%、約10万人
・熱線や温度によるものが約15%、2万人
・放射能によるものが約10%、1万4千人
 それ以降、多くの被爆者が白血病、ガンを患い、精神錯乱状態で亡くなりました。
 ロバート・リフトンNY市立大名誉教授が出した「ヒロシマを生き抜く」(現代岩波文庫,2010)によれば、爆心地から1.2kmでその日の内に50%が死亡、それより爆心地に近いところでは、その日の内に80%~100%が死亡、その後も死者は増え続けた、とあります。

白血病やガンの恐怖
 一度放射線によって傷ついた染色体は、直後には細胞が生存を諦めるアポトーシス、いわゆる細胞が壊死していく、それを惹き起こして直後に1万数千人が亡くなりました。
 6~7年後からは、さきほど映画でご覧いただきましたが、原爆の子の像の佐々木禎子さんを始め多くの被爆者に白血病をもたらしました。10年後からはガンを惹き起こし、10万人以上が亡くなりました。被爆後69年の現在では、今のところ有効な治療法が見つかっていない不治の病(MDS:骨髄異形成症候群)となって次々と被爆者の命を奪っています。私自身もこれに罹る確率が非常に高いと思っています。
 最近、ある被爆者が「私の体の中に原爆が居る」と言って亡くなりました。被爆者は、放射線によって傷つけられた染色体の変異によって、次々と惹き起こされる病との終り無き闘いを、生涯に亘って強いられています。子孫への影響も考えると「生涯」で終わらないのではないか、「将来」の不安とも戦い続けなければならないのかと、ヒバクシャに心身の安心はありません。

近距離被爆者12人生存
 900㍍以内で被爆した人の中で、私が今も元気に生活している唯一の人間かと思っておりましたが、先日のテレビで500㍍以内で被爆して奇跡的に助かって、今も生存している方が12人いることが分かりました。
 69~97歳の男性2人と女性10人です。どなたも堅固な鉄筋ビル(日銀、富国生命、国民学校)の陰であったり、満員の路面電車の真ん中にいて、直後の熱線・放射線の直射を免れた人たちです。もっとも、生き残っておられるといっても半数がガンに罹り、内4人は重複ガンで、寝たきりで通常の生活はしておられません。

原爆ノイローゼを使命感で乗り越えた
 長い間、被爆者で精神を患って亡くなった人は少なかった、と言われ、それに対して私は非常に違和感を感じていました。先に紹介したリフトン教授によれば、白血病やガンを患い亡くなっていった被爆者は、それに「原爆ノイローゼ」を併発して精神錯乱状態で亡くなっていったとのことです。
 長崎で調査されたことに、心理的被曝ということがあります。健康被害が出るほどの放射線被曝ではないと国がしている地域で、原爆投下を実際に目撃した人の多くは、「半世紀以上を経ても、精神疾患の危険性が高い」という調査分析結果を、2012年に国立精神・神経医療研究センターが発表しました。
 東日本震災でも見られましたが、大災害の直後は心身ともに受けた甚大な被害を感じないよう被爆者は「心理的締め出し」を行って乗り越え、その後「原爆ノイローゼ」に陥り、それを「精神再形成」で乗り越えました。原爆病への怯えや社会的・心理的苦痛を受け止め、平和への使命感、自分の体験を将来の平和に活かすという使命感で乗り越えてきたのです。
 ここまで原爆の実相の一部をお話しました。この後は私自身の被爆体験をお話しします。

2.私の被爆体験

満州から広島へ
 私たち親子は満州の逓信省官舎で暮らしていました。昭和20年4月に父が沖縄へ出征した後、すぐに戦死しました。母は関釜連絡船で帰国を決行しました。日本の敗戦がほぼ間違いないということで略奪が頻発しており、釜山では荷物を盗られたり大変な目に遭いました。ようやく父の実家(広島市・大手町)にたどり着いて、しばらくそこに滞在した後、疎開準備のために母の実家(水主町)に寄っていました。母は25歳、姉は4歳、ボクは3歳でした。
 ここからは当時の幼い自分の視点でお話しますので、「私」ではなく「ボク」という言い方になります。

被爆の瞬間
 「ピカッ」と目が眩む閃光の後、物凄い爆風で吹き飛ばされて地面へ落下しました。ほんの僅かな時間に落下したものと思いますが、その時は随分長い間空中を遊泳していたように感じました。
 そこへ家がミシッと音を立てて崩れて覆いかぶさってきました。一家全員生き埋めになっていた時間はどれくらいだったでしょうか。30分後にはすべてが燃えていたことから、生き埋め時間は25分くらいだったと思います。きのこ雲で真っ暗になってまったく何も見えませんでした。
 母の実家は庭に鯉を飼っていて、ボクはたまたま母から呼ばれて庭先から座敷の奥の方に来ました。この図を書いたのが母の妹なので「おい」とあるのがボクです。「父」が祖父、「私」が叔母です。もし私がそのまま鯉を見ていたら、瞬時に焼けただれて死んでしまったと思います。
 「お母ちゃん、助けてー」と何度も叫びたかったのですが、声が出せませんでした。その場面はその後も繰り返し「夢」の中に登場し、いつも「助けてもらいたい時に声が出ない」ところで目が覚めるようになりました。ずっとこの同じ夢にうなされ続けていましたが、「夢療法」という心理療法を受けて、やっとこの夢から逃れることができました。しかし被爆後70年近い今でも「助けてー」の声が突然口から飛び出して、自分も周りの人もビックリすることがあります。
 一緒に生き埋めになっていた祖父に、叔母と共に掘り出されました。みんなでお母ちゃんとお姉ちゃんを探してくれて、やっとのことで会うことができました。

なぜ爆心地近くに長時間いたのか
 周り中ガレキの山と炎の中をみんな裸足で、母は4歳の姉の手を引き、ボクは女学生だった叔母に抱っこされて、明治橋のたもとまで逃げました。しかし、そこから先へは進めません。動けないので、瓦礫が燃えて熱い中、明治橋のたもとで半日余り、飲まず食わずで助けを待ちました。
 夕方になると、熱風で皮膚が剥がれて垂れ下がり、幽霊のように手を前に出して歩いている人、大火傷で真っ赤な人、怪我で血だるまの人たちが集まってきました。それらの殆どの人がその夜のうちに亡くなりました。
 なぜ、そんなひどい所にとどまったのかと、よく聞かれるのですが、爆風で家から外へ飛ばされたのでボクたちはみな裸足でした。炎上している瓦礫の山を裸足で乗り越えるのはできません。また、しばらく時間が経つと累々たる屍が目に飛び込んできました。その屍を裸足で踏んづけて乗り越えることもできませんでした。
 その日の夜、ボクたちが幼かったため祖父母らとは別に、特別に陸軍の暁部隊の船に乗せてもらい、宮島のお寺(大聖院)へ移動しました。その日に食べたのは夕方、軍から貰ったミカンの缶詰1個だけで、猛暑の中、水もおにぎりもありませんでした。そこで数日間雑魚寝した後、祖母の従姉妹宅へ身を寄せました。

放射能で母と姉が次々と…
 しかし母は25歳、姉は4歳で帰らぬ人となりました。二人とも被爆1ヵ月以内に原爆症によって毛髪は抜け、唇を始め身体は青黒く変色し、発熱、下血、鼻血などの症状をみせながら相次いで亡くなりました。母は「そんなに親切にしてくれたら、あの世へ逝かれん」と言いながら息を引き取ったのです。放射能によって体中の細胞が次々と死滅(アポトーシス=細胞の集団自殺=壊死)していく苦しみの中、生きる希望を失った最期の感謝の言葉でした。3歳のボクも同じような症状でしたが、当時のお医者さんたちから「外傷が大きかったので、逆に細胞が自殺を諦め、必死に生き延びた」のではないかと言われています。

6歳まで生死の境
 奇跡的に生き延びたボクも「生きる屍(しかばね)」状態でした。祖父が葬儀屋に母・姉の葬儀を頼んだ際、葬儀屋が「この子の葬儀も一緒に」と言ったそうです。その祖父も半年後に原爆症で死にました。
 ボクは、爆風を受け、無数の傷口からは血がほとばしり出ました。祖母の弟が皮膚科の医師でしたので、ダイアジンという錠剤を貰って、それをガーゼに包んで金槌で叩いて粉にして塗りました。しかし痛いばかりで、何の効果もなく、その傷口が化膿して閉じるのに7年かかりました。
 体力の回復には実に30年の歳月を要し、健康とはどういうことなのか、まったく分からない状態でした。胃腸や心臓が弱く、いつも目まいがしていました。めまいがあるのが普通の状態と思っていたので、めまいでお医者さんにかかったのは31歳の時でした。座るのがしんどいので、よく寝転んでいました。
 母の死後ボクは、父方の祖母に養われることになりました。その祖母は爆心地周辺の屍を踏み分け、俯せになっている人を揺り起こしてボクたち親子を探し回ってくれたのです。
 主食はサツマイモとジャガイモでした。おやつにカタツムリを七輪で焼いて食べました。イナゴもたくさんいましたが、網も何もなく、捕まえられませんでした。祖母はミカンの中身をボクにくれて、自分は皮を食べていました。よちよち歩きでしたが、藁ぞうりを履いて走るとパタパタと音がして、少しは速く走れるようになったと嬉しかったことを覚えています。祖母は多くの品物を売って、柔らかいゴムまり(ボール)を買ってくれました。嬉しくてたまりませんでした。その優しい祖母も3年半後に原爆症で亡くなりました。
 小学生時代は下痢・頭痛・貧血・目まいに悩まされ、年に何度かは心臓が弱って「雨戸を閉めて寝たきり」で過ごしました。当時、テレビもラジオもありませんでしたので、雨戸を閉め切って、節穴から入ってくる光を見て過ごしました。小学館の雑誌が唯一の読み物でした。
 「かけっこ」はいつも一番ビリで、キャッチボールはしたことがなく、今でもできません。勉強もできませんでした。小学6年間で宿題は一度もできませんでした。

サバイバーズ・ギルト(生き残ってしまった罪悪感)
 母と姉は、被爆直後、ぐずる私を連れて逃げ回るのに大変な労力を費やしたと思います。母と姉の死は、私にとって「ボクがいい子にしていなかったから、お母ちゃんとお姉ちゃんが死んじゃった」と、自分を責め続ける苦しい人生の始まりでもありました。小学校1年頃には「ボク、いい子になるから、お母ちゃん、帰ってきてー」と何度も叫びました。
 ボクの中で、家族の中で一人だけ生き残った「自分を責め続けて」いるボクがいます。100歳で亡くなられた新藤兼人監督も、一緒に招集された仲間たちのほとんどが戦死したことで「自分は何で生きとるんじゃ」と問い続けた人生であったと、生前言っておられました。

今もある原爆の恐怖
 私は、子どもの頃から白血病になるのではないか、気が狂ってしまうのではないか、と心配してきました。未だに、思わず「タスケテー」(意味不明)の声が口を衝いて出ることがあります。何度も被爆の瞬間が、昼はホッとした時、夜は夢の中で、「昼も夜もいつも思い出されて気が狂いそう」になり、休憩時間が怖いという人生だったと思います。白血病やガンへの恐怖も一時よりは弱まりましたが、未だに続いています。今でも唇は黒いままです。
 最近になって被爆者の間に第二の白血病と言われる骨髄異形成症候群(MDS)や多重ガンが多発しています。なぜ、被爆から60年以上も経ってからMDSを発症するのか。被爆により遺伝子に小さな傷がつき、その傷が遺伝子の異常を誘発し、60年後に大きな傷となり白血病を発症するのでないか、というのが長年被爆者医療を研究している医師たちの見解です。私と一緒に被爆した叔母の二人とも多重ガンで俯しています。私もいつそうなるか、という不安を胸に暮らす毎日です。以上が私の被爆体験の説明です。

3.平和への道

 「平和への道」ということに少しふれておきたいと思います。ヒバクシャとしての提言ですが、世界中の政治に携わる人たち、特に大統領とか首相などリーダーの方々には、ぜひ広島へ来て原爆の実態を見ていただきたい。また、今日ご参加いただいた皆さまのように、「原爆投下は仕方なかった」などとはとても言えない実相を見て、聴いて、その上で平和のために取り組んでいただきたいと思っています。

いかなる戦争も起こしてはならない
核兵器は持たないのが一番
 もう一つ、人は戦争の名の下に数々の殺戮を繰り返してきました。通常の状態なら正しく判断できることが、戦争状態になると判断を間違える生き物であることを認識する必要があります。ですから、いかなる戦争も起こしてはなりません。いかなる理由があろうとも核兵器を使ってはならないのです。核兵器を持っていると戦争状態になった場合使いたくなるのが人間の性ですから、「持たない」というのが一番です。原爆は通常爆弾を何十万トン集めたに匹敵する破壊力だけでなく、それをはるかに超えた悲惨さを持っているのです。
 原爆は戦争の抑止力にはなりません。原爆は「絶対悪」です。核拡散は防止せねばなりません。核兵器廃絶は是非とも成し遂げねばなりません。攻撃や報復は平和には決して繋がりません。「平和をもたらすのは、お互いの違いを受け容れた信頼、尊敬のコミュニケーションだけです」。
 福島第一原発事故からの復興についても私なりに活動しています。被曝された人たちから、私が比較的元気に暮らしている姿を見て少し気持ちがラクになった、と言ってもらいました。今日はこのことについては割愛させていただきました。
 以上で、被爆の実相・私の被爆体験・平和への道のあり方について終了させていただきます。ご静聴ありがとうございました。

質問に答えて
(質問) お話を聞いて、原爆から受けた大変な苦しみを乗り越えて来られた。心理的な面の他に身体の健康についてはどのように考えてこられたのでしょうか。
(飯田) 私は健康によい、と思われるものは、何でも過剰と言われるくらい実行してきました。早寝早起き、腹式呼吸はもちろん、肉類より野菜がよいと言われ、肉を減らして大失敗したこともあります。極端な貧血を起こし、お医者さんにこっぴどく叱られ、その治療に3年かかりました。その後は栄養バランスを大切にしています。

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