講演「私の被爆体験と核兵器のない世界を求めて」

日時 2019年8月11日(日)
講師 木戸 季市さん(日本原水爆被害者団体協議会 事務局長)

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 こんにちは。私は『夕凪の街 桜の国』を観るのは2回目です。正直心が揺れていてきちんとお話できるかどうか…。映画の中でお母さんが旭さんの結婚に反対していました。その理由は、被爆者と一緒にさせたくないというのではありません。原爆で死んだ人をたくさん見てきた、もうこれ以上被爆者が死ぬのを見るのは嫌だという思いを感じて、私は心が震えたことを思い出しました。

私の被爆体験
 私の被爆は、1945年8月9日と10日です。場所は被爆地図を見ましょう。円の中心●印が爆心地で、同心円の2キロの▲印が私の被爆したところです。長崎市旭町1丁目の自宅前の路上でした。母と一緒に近所のお母さんたちと配給のそうめんを取りに行こうと集まった時、飛行機の音が聞こえました。「おかしかね。アメリカの飛行機のごたる(「ようだ」の意)」と、あるお母さんの言葉が今も耳に残っています。
 音が去った瞬間、ピカーッ。2キロではまさにピカドン、4~5キロならピカードーン、500mなら一瞬で何が何だかわからない(聞いた人はほとんど生きていない)。その時私は爆風で20mほど飛ばされ、気を失い、顔半分を火傷しました。横たわっている私たちを見つけた父は「みんな無事でよかった」と。その日は▲から西の防空壕に逃げました。
 翌日、母は戸板に私は籠に乗せられ、地図の浦上川に沿って避難しました。私は5歳でしたので被爆の記憶は確かなのですが視線が低く、周囲の様子は鮮明ではありません。しかし我が家から中心部にかけては建物はなく、爆心地に近づくにつれて水を求める人や死体がゴロゴロとありました。
 その様子は私の姉が長姉に宛てた手紙にこうあります。「長崎病院から先は一軒の家もなかとさ。護国神社の下まで壊れた家も見当たらんとさ。道には死体がゴロゴロ。見るまいとしても、あまりに多いがために。大橋の下までゴロゴロ。その時のままでさね。道の尾につくまで、死人がゴロゴロ…」
 写真を比較すると被爆の2日前はびっしり家が密集しています。右の写真は3日後の同じ場所ですが、まったく何もありません。母は戸板に乗せられ、大橋では水を求めて折り重なった死体があふれていたのです。

私は三度被爆者になった

 今年で被爆74年、私は三度被爆者になったと言うようになりました。一度目は1945年8月9日の長崎での物理的な被爆です。米軍は原爆被害の報道を禁止し、国民には正確な知識が与えられませんでした。また日本政府は同年10月に戦時災害保護法を打ち切るなど、援助の手を差しのべず、その中で被爆者は必死で生きてきたのです。もちろん私自身は当時何が起きているのかわかりませんでした。
 1952年に米軍占領が終わって原爆報道が解禁になり、『アサヒグラフ』の悲惨な写真を見て自分は被爆者なんだと自覚しました。それが二度目です。
 当時、被爆者は白血病でいずれ死ぬとか奇形児が生まれるとか言われ、一見健康そうな人でも不安や苦悩が始まった時代でした。以後私は普通の少年・青年として育ちました。しかし映画の中にもありましたが、被爆者ということを隠す意識はなかったのですが話すこともできませんでした。大学3年で初めて友人に話した時、非常にエネルギーが要ったことを覚えています。
 三度目は1991年、被爆者運動に参加した時です。岐阜県の原爆被害者の会再建のため事務局長を引き受けました。こちらの反核医師の会の結成から2年後のことですから、その意味では私はわずか28年のまだまだ若い被爆者ということになります。あの日確かに被爆したけれども、それだけで被爆者と言えるのかという思いがずっとありました。被爆者運動に参加する中で、あなたの人生で大切な思い出は何か、と問われて答えた被団協代表委員の故谷口さんの「原爆に抗って生きてきたことそのものです」という言葉に教えられました。

日本被団協が明らかにしたこと

 日本原水爆被害者団体協議会(被団協)結成総会の宣言文に、「かくて私たちは自らを救うとともに、私たちの体験をとおして人類の危機を救おうという決意を誓い合ったのであります」とあります。この誓いを貫き、被爆の実相を伝え、徹底した調査研究を行いながら「核兵器をなくせ」「原爆被害の国家補償を」という要求を作り出しました。
 今日までの被団協運動が明らかにしたことは、①原爆は大量の命を無差別に奪い、②今日まで身体、暮らし、心に傷を負わせ続ける、③原爆は破壊と殺戮だけをもたらす悪魔の兵器、④人類と共存できない反人間的兵器、だということです。
 ところで「ヒバクシャ」というと使われ方には大きく二つあります。ひとつは原爆被害者にとどまらず、ウラン精製や核兵器の開発で被ばくした人々、さらには原発事故の影響を受けた人々まで世界的規模に広がる使い方です。もう一つは、被爆者健康手帳を持っている人のみを指す場合です。そこで原爆で亡くなった被爆者の死というのはどういう死だったのか考えてみましょう。

原爆死とは?

 原爆死とは、1)大量死であり、2)無差別であり、3)突然死です。あの日、飛行機の音を聞いて、その瞬間自分に何が起こったのか何もわからず死んでいった。そういう状態ですから、4)未確認死です。家族にとってどこで死んだのかもわからない。一人の人間として弔うことができない、人間としての尊厳を奪われた死なのです。
 そして、5)なお今日まで続いてくる死です。原爆で生きる糧を失い、放射能の後遺症で苦しみ、人間らしい生活ができなくなりました。生き残った人たちも「助けて」と足元を握られた手を振り切った自分の非人間性を、今日までずっと心の傷として引きづっているのです。何年か前に東京で、年老いた被爆者がハイヒールの若い女性と接触して二人とも転びました。被団協の事務所に来て足首をさすりながら言うのです。「あの若い子大丈夫だったろうか。私にバチがあたったの。あの時、若いお嬢さんが私の足を握ったのを振り離して逃げたから」。このように被爆者は心の傷とともに生きてきました。
 私はこの頃、被爆者の後遺症は放射線の影響もありますが、それだけでなく、大きな心の傷が病気を引き起こさないはずがないと思うようになりました。

国はなぜ被爆者の願いを聞き入れないのか

 国はなぜ被爆者の願いを聞き入れないのでしょうか。核兵器禁止条約の署名・調印をしない。核抑止論に拘泥し核の傘を離脱しようとしない。原爆被害者の国家補償もしない。
 ここにその根拠らしき文章があります。
 「およそ戦争という国の存亡をかけての非常事態のもとにおいては、国民がその生命・身体・財産について、その戦争によって何らかの犠牲を余議なくされたとしても、それは、国をあげての戦争による一般の犠牲として、すべての国民がひとしく受忍しなければならない」。これは1980年の厚生大臣の私的諮問機関「原爆被爆者対策基本問題懇談会」の答申書の内容です。
 簡単に言えば、殺されても、ケガをしても、家を失っても、戦争なんだから我慢しなさい、と言っています。注意すべきは過去形ではなく、現在進行形で書かれているので、これからの戦争でどんなに悲惨なめにあっても国は補償しませんよ、と宣言しているに等しい。これを根拠に政府は被爆者や戦争被災者など国民の要求を拒絶してきたのです。

戦後教育の自由な雰囲気で育った

 79年の生涯を振り返って私の原点は、両親から命をもらったことと、やはり被爆したことだと思います。8人兄弟の末っ子で、上が姉たち下が兄たちでした。これが逆だったら兄たちはみな戦死していただろうと思います。そういう世代でした。学校教育は戦後の自由な雰囲気の中で育ちました。いま保守の人たちは戦後教育のせいで権利ばかり主張すると言われますが、あれは実感として間違いです。戦後教育は一人ひとりの人間を大切にすることでした。それを戦前の教育に変えようとしてきたのが歴代の政府で、現在、本当に戦前に変わりつつあるという印象を強く感じます。

押し付け憲法論の矛盾

 自衛隊を憲法に明記せよと言われますが、警察予備隊として創ったのはマッカーサーです。帝国憲法改正の直前、新憲法の9条は本当にこれでいいのかとアメリカ側から問われたとき、戦後復興のためには吉田茂首相はこれでいいと言いました。1953年の池田・ロバートソン会談で、名称変更された保安隊を増強し、再軍備のために9条を変えたらどうかとアメリカ側から言われました。その時池田勇人首相は、「無理だ、9条はもはや国民に定着している。国民の意識を変えるためにはまず教育を変える必要がある。それまで待ってくれ」と答えたそうです。以後、民主的な戦後教育が後戻りしていくのですが、自衛隊を作り、大きくし、戦争ができるよう9条を変えるというのはアメリカから言い出されたことなのです。保守派の人たちは新憲法は押しつけられた憲法だから9条を改正するんだと言いますが、自衛隊も9条改正もはじめはアメリカから押し付けられたもの。この矛盾について安倍首相が何も触れないのはおかしいです。

被爆者の要求は戦争をしない国のしくみ

 戦後の歴史の中で今がもっとも戦前に近づいているという危機感を持っています。そういう中で被爆者運動は「核兵器をなくすこと」と「原爆被害への国家補償」を求めています。原爆被害とは戦争被害です。戦争をやっていたから原爆が投下された。だから被爆者を作らないためには戦争を起こさせないことです。別の言い方をすれば戦争をしない仕組みを作ることが大切です。幸い私たち日本は戦争をしない仕組みの基本を持っています。憲法9条ですね。しかしそれだけでは弱い、具体的な法律は何もないのですから。たとえば原爆の被害にあったらこういう補償をします、空襲にあったらこう補償します、という法律や仕組みを作れば、本当に戦争をしない国になるでしょう。原爆被害への国家補償を求めるということは、戦争をしない仕組みを作りなさいという要求なんですね。

日本は無条件降伏したのか?

 余談になりますが、私は本当に日本は無条件降伏をしたのか、という疑問を持っています。ポツダム宣言をよく読むと、5項に「吾等ノ条件ハ左ノ如シ」とあり、6項以降にその条件が書かれています。特に10項の「日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ」というのが戦後日本の基本となります。これらの条件によってこういう日本を作ると連合国側と約束して調印しました。ですから無条件降伏させられたのは軍隊だけで、日本は民主的で基本的人権が尊重される国になるという条件を守ることを約束したのだ、と考えています。
 最後に長崎平和宣言にある詩を朗読して私の話を終わります。

幾千の人の手足がふきとび
腸わたが流れ出て人の体にうじ虫がわいた
息ある者は肉親をさがしもとめて
死がいを見つけ そして焼いた
人間を焼く煙が立ちのぼり
罪なき人の血が流れて浦上川を赤くそめた

ケロイドだけを残してやっと戦争が終わった
だけど……
父も母も もういない
兄も妹ももどってはこない

人は忘れやすく弱いものだから
あやまちをくり返す
だけど……
このことだけは忘れてはならない
このことだけはくり返してはならない
どんなことがあっても……


参考資料

安倍首相が「つまびらかに読んでいない」ポツダム宣言(抜粋)

(日本国ノ降伏条件ヲ定メタル宣言)
1945(昭和20)年7月26日発表

10 我らは日本人を民族として奴隷化しようとしたり、または、国民として滅亡させようとする意図を有するわけではないが、我らの捕虜を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重な処罰を加える。日本国政府は日本国国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障害を除去すべきだ。言論、宗教、思想の自由、ならびに基本的人権の尊重は確立されなければならない。
11 日本国はその経済を維持し、かつ公正な損害賠償の取り立てを可能にするように産業を維持することを許される。ただし、日本国に戦争のための再軍備をさせるような産業はこの限りではない。右の目的のための原料の入手、(原料の支配は含まない)を許可される。日本国は将来世界の貿易関係への参加を許される。
12 前記の諸目的が達成され、かつ、日本国国民の自由に表明された意思に従って平和的な傾向を有し、かつ、責任ある政府が樹立された場合には、連合国の占領軍はただちに日本国より撤収する。
13 我らは日本国政府がただちに日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、かつ、右行動における同政府の誠意によって適正かつ十分な保障を提供することを同国政府に対し要求する。右以外の日本国の選択は、迅速かつ完全なる壊滅があるだけだ。

*日本政府はこれを黙殺したため、予告通り連合軍は甚大な攻撃を行い、8月6日に広島、9日に長崎に原爆が投下された。


参考資料

原爆がもたらしたもの

 原爆は、広島と長崎を一瞬にして死の街に変えました。
 赤く焼けただれてふくれあがった屍の山。眼球や内臓のとび出した死体。黒焦げの満員電車。倒れた家の下敷きになり、生きながら焼かれた人々。髪を逆立て、ずるむけの皮膚をぶら下げた幽霊のような行列。人の世の出来事とは到底いえない無残な光景でした。
 わが子や親を助けることも、生死をさまよう人に水をやることもできませんでした。人間らしいことをしてやれなかったその口惜しさ、つらさは、生涯忘れることができません。
 いったんは死の淵から逃れた人も、また、家族さがしや救援にかけつけた人たちも、放射能に侵され、次々に髪が脱け、血をはいて、たおれていきました。
 生き残った人たちも「原爆」を背負いつづけています。
 「家もなく無一物になり、何一つ楽しいことはなく、生けるしかばねです」「一生病臥の毎日です」「働こうにも人並みに働けない。人からはなまけ者と言われるが、こんな体にしたのは誰なのか」。結婚・就職などの差別をおそれ、被爆者であることを隠し続けている人たちも少なくありません。
 ちょっとした体の不調でも、原爆のせいではないかと思いわずらい、あるいはまた、いつ、原爆症が出るか、子 や孫への影響は……と、胸に爆弾を抱いたような毎日なのです。
 原爆で肉親を奪われた遺族も、悲しみと恨みの40年を生きてきました。
 「身寄りが一人もいなくなり、故郷もなくなりました」「子供を助けられなかった親の悲しみは、死ぬまで続きます」「原爆の落ちた日から影も形もなくなった主人のことを忘れよというのは酷です。今でもきのうのことのように思い出します」「姉は、死ぬまで毎日が病気との闘いでした」
 原爆は、閃光とともに2つの街を壊滅させ、無差別に大量殺傷しました。人類が初めて体験した核戦争の“地獄〟でした。
 原爆は、今にいたるまで、被爆者のからだ、くらし、こころにわたる被害を及ぼし続けています。
 原爆は、人間として死ぬことも、人間らしく生きることも許しません。核兵器はもともと、「絶滅」だけを目的とした狂気の兵器です。 人間として認めることのできない絶対悪の兵器なのです。

日本被団協の原爆被害者の基本要求(昭和59年11月18日)より抜粋