砺波市・岸川義一氏(90歳)

 先月のいつだったでしょうか、NHKの広島放送局から「ヒバクシャからの手紙」を書いてほしいという連絡がありました。投函した私の手紙を読み上げたいと思います。

あの時のにおいの記憶が離れない
 広島に原爆が投下された3日後の8月9日、無線通信手として和歌山の楠部隊に配属されていた私は、急に広島に向かうよう命令を受け、無蓋貨車に乗って広島駅に到着しました。待合室はけが人であふれ、近くの元安川には遺体が無数に浮かんでいて、道ばたにも多数の遺体が横たわっていて目を覆うばかりの光景でした。今でもあの時のにおいの記憶が頭から離れません。あらゆる建物の窓ガラスは壊され、電車が吹き飛んでひし形に変形していました。
 目的地である電信電話局につくと地下室と屋上に遺体が集まっていて、瓶(かめ)に入れてひたすら運び出しました。学校のグランドには遺体やけが人が所狭しと並び、水をくれと言うので飲ませたとたん我々の目の前で何人もの人が死んでいきました。お医者さんが一人いたようでしたが、おろおろするだけで何も治療できなかったようです。夕方道ばたの遺体から、燐が燃え、青白い光を放ちながら、小さい火の玉が無数に飛んでいるの見ました。夜になると遺体を焼く炎が至る所でメラメラと見えました。

福島でヒバクシャを出さないでほしい
 あのときの生き地獄をこの目で見て体験した恐怖は、今も脳裏に刻まれています。今回の福島の原発事故で、安倍首相には残留放射線によるヒバクシャを絶対出さないでほしい。私たちは国民の無関心が一番怖いのです。そのためにも、私は命あるかぎり、自分の経験を伝えていきたいと思っています。

参考:長崎・広島ヒバクシャ証言集「想い」より

高岡市・柴田政一氏(85歳)

 私は、いつかこの「はだしのゲン」のアニメを見たいと思っていまして、今日念願が叶いました。ズバリ、私の経験したことそのままで、真実を語っていると思いました。これはぜひ多くの皆さんに見てもらいたいです。

学徒出陣で入隊、広島へ
 アニメではふれていなかった話をします。6日の朝7時9分に空襲警報が出されましたが、気象観測機だったため7時31分に解除されました。そのため人々は防空壕から出て無警戒の状態でした。それが被害をより大きくしたのです。投下後軍は会議を開きましたが専門家は「まだ原爆は完成していないはず」と答え、国民には新型爆弾としか発表されませんでした。私自身もずっと原子爆弾であることを知りませんでした。
 17歳で学徒出陣で入隊、8月に広島に入り惨状を目の当たりにしました。防火用水の中で子どもを背負った若い母親の遺体を見つけたときは、本当にびっくりしました。「兵隊さん、兵隊さん、水を…」と半分体の焼けた少年から懇願されても、上官から水はやられんぞと言われていたので、振り返りながらもどうしようもなかったこと。焦げた電車の中、運転台でレバーを握りしめたまま死んでいた女性運転士。今でもはっきりと脳裏に浮かびます。

戦後、原爆にはふれてこなかった
 私は戦後長い間広島へは行かなかったし、原爆の話もしませんでした。なぜ今まで話さなかったのか、とNHKさんに聞かれましたが、自分でもつらく話してわかってもらえない気がしていました。しかし今回こういう場で話をするというので、今度は、どうして話す気になったのかと聞かれました。自分でもよくわかりませんが、原子爆弾は文明の破壊であることは確かで、残された人生、ささやかな誇りを持ち続けたい、ということだと思います。

参考:長崎・広島ヒバクシャ証言集「想い」より

富山市・田島正雄氏(85歳)

一発の原子爆弾は、世界が始まって以来の大惨事だったと思います。再びこのようなことが起こらないよう、切実に私たちは願っています。
 当時17歳だった私は、学徒動員で広島の江田島にいました。朝の8時15分に原爆が炸裂し、「広島の方に新型爆弾が落ちたからこれから行って、救援に行きなさい」ということで、その日のうちに広島市へ入ったのです。

つらかった遺体運び
 いろいろありましたが、中でも1番つらかったのは遺体を集めることでした。場所が無いので学校のグランドを使いました。当時は手袋も無く素手で運びました。遺体を抱き上げると生暖かく、持ち上げた衝撃で腹の皮が破れ、体の内臓がとろとろっと手にかかるのです。私たちはそういう方々をずっと校庭に並べました。夜は何百というその中に入って寝て、食べ物もなく、わずかの水しかない中で毎日そういう作業をやっていました。ある時、亡くなった人達の間を通り抜けたら、私の足をぐっとつかまえてきたのです。亡くなったようにみえても中には生きていた方がおられたということは事実です。そういった体験をしました。

体力の許す限り語り継ぎを続けたい
 富山県被爆者協議会のことですが、富山県には広島と長崎で原爆の被害にあわれた原爆被爆者の方が現在も50数名おられます。私はそういった方々のお手伝いをしており、私たちは再び被爆者をつくらないという強い願いから、この運動をやっています。
 私たちが体験した悲惨な事実を、責任をもって後世の方々に伝えておきたいと思っています。私たちもだいぶん歳になりましたが、今後も体の許す限り、語り継ぎの運動を続けていきたい、そして世界平和を守りたいという信念ですので、今後もよろしくお願いします。

参考:長崎・広島ヒバクシャ証言集「想い」より