14歳の悲痛な想い出

広島・長崎ヒバクシャ証言集「想い」(2020.7)より

 長崎編  水野 耕子

 私は爆心地より2.8キロの学校工場で被爆致しました。当時14才でした。長崎市内を真ん中から金比羅山という山が伸びて両側に街があり、爆心地からは裏側になる場所です。
 原爆が投下されて地上2,000mの上空でピカーと全市に閃光が拡がり、次の爆破は地上で起きました。2階の教室で異常な光を浴びるなり、友の手を取り階段を駆け下りようとしました。友の一人が「アッ、防空頭!!」と言うなり、手をもぎ放して駆け上がって行きました。私はもう一人の友と12段の階段を踊り場まで駆け下りた瞬間、2人は凄い振動で壁に打ちつけられ気を失いかけていました。
 一瞬後見たものは、壁の姿見の鏡が頭上より落ちコナゴナに割れ、 辺りは白いホコリと煙の様なものが漂っている状景でした。
 下の方から先生の声が聞こえ助かったと感じ上に戻って友の所へ行くと、 足の裏をガラスの破片で動脈を切断し、顎にガラスが突き刺さって大出血をしていました。光によって小さく割れた破片が人々の身体に刺さり、多くの友は傷を負い出血して医務室の方へ走っていきます。幸い無傷だった私は、部屋のガラスが減茶苦茶に散乱したベットを先生と引つ繰り返して重傷者を寝かせました。「元気な者は早く家に帰りなさい」と言われ裸足のまま我が家へ走って戻りました。山裏であの悲惨な被害を受けたことを徐々に知るにつれ、辺りは夏の日盛りというのに夕方のように薄暗く、間もなく家の前を山越えしてきた被災者達が4、5列になって言葉も失ったままよろよろと歩いてきます。
 何十人何百人とボロを下げた様な人達、 歩いている人、大八車、リヤカーに乗せられていく人達。人、人、 水を求め共同水道に群がって飲んで又ヨロヨロとして行ったあの人達は恐らく何人生き残つたことでしょう。
 後に原爆症に苦しみ46年経た今日も、生命の一部に問題を残すと誰が思ったことでしょう。 その夜近くの裏山の谷底へ皆避難しました。街は一晩中燃え続けていました。
 谷底の避難は2日間でしたが、敵機は9日の夜も来て探照弾を落として写真を撮って行きました。3日目は父母を残し私達姉妹4人は地熱の残る長崎駅まで歩きましたが、使用不能で4つ目の駅まで中心地の近くを歩き通しました。その間敵機来襲で機銃掃射を受けては林や森へ逃げながら、 やっと佐世保の伯父の疎開地へ辿り着きました。1ケ月後街の電柱に張られた新学期の案内の紙や、食糧難と実験的に爆心地のグランド「医大」に植えた芋やじゃが芋が異常に大きくなってそれを学生皆が大喜びして食べたことなど、又歩きながら道の側に残された人骨や頭蓋骨を平気で見ていた14才の私の事を考えるとゾッとするのです。本当に大変な時代を過ごしてきたと思います。
 この衝撃の体験、核の恐怖が解ってきた現在、二度と再び私達の体験を繰り返してはならないと切実に思います。語る事でますます強く思うのです。