広島慰霊の旅を終えて

小島 貴雄 氏(富山県被爆者協議会 会長、被爆2世・3世の会 会長)

被爆二世として原点を見つめなおす

幸ノ浦の慰霊碑前で岡野さん(左端)から水上特 攻部隊の歴史などを聞く小島会長(右か ら2人目)たち協議会のメンバー

 私たち富山県被爆者協議会(以後、当会)は、「原爆被爆者および、その子、孫の健康の維持増進と福祉の向上を図ること」を目的に、1960年5月に結成され、今年で60年目を迎えました。その間、諸先輩方の努力により一時は会員数は百数十名を数え、富山県見舞金条例の制定、相談員制度発足、被爆者絵画展、そして被爆体験記録集の発刊等、数々の事業に取り組んでまいりました。しかしながら戦後74年を迎えた今年、県内被爆者は48名に減少し、更には平均年齢が85歳を超える状況になり、当会の運営は二世に委ねられました。
 被爆者二世として、被爆者自身とは別の視点・立場から当会の原点を見つめるに際し、被爆体験記録集の再編集と、被爆の実相の再認識を喫緊の課題ととらえ、今年度は再整備された広島の原爆資料館見学を企画しました。
 今回の慰霊の旅での目的は、三つです。一つ目は、救援援護のための入市被爆者の足跡をたどること。二つ目は、広島在住の二世との懇談を通して先進的な運動の一端を学ぶこと。三つ目が、今春リニューアルされた資料館見学を通して原爆の実相を学ぶことです。

宇品から江田島へ

 7月27日・28日の1泊2日の旅でしたが、初日の昼過ぎに広島に到着した私たち5人の会員は、宇品にある陸軍船舶司令部の跡地を訪ねました。当日は宇品での花火大会の日であり観覧の人出が多く、花火による慰霊の感すら感じられましたが、戦後長い歳月を経た今日においては、その様な感傷に浸っているのは私たちだけであったと思います。
 宇品の港から約20分の船旅で向かった先が江田島の切串の港でした。港から車で5分余りの幸ノ浦は、陸軍船舶練習部隊の秘密訓練基地が置かれた地であり、今は千数百名を慰霊するための碑が、ひっそりと瀬戸内の海を眺めながら佇むばかりでした。慰霊碑を管理されていた橋本静之氏と、現在管理を引き継いでおられる岡野数正氏等から秘められた歴史の一端を聴かせていただくと共に、退避壕跡を案内していただいきました。若かりし頃の当会前会長の田島正雄さんや私の父が訓練していた姿を想像しながら、広島上空に立ち上る「きのこ雲」を想定しました。未知なる物との遭遇による驚愕は如何ばかりであったか想像することすらできませんでした。

熱心な広島二世部会の運動

 市内に戻り、夜には広島県原爆被害者団体協議会の二世部会のメンバーとの交流を行いました。先進的で活発な運動に敬意を表するばかりでした。その話の中で、原爆症が遠因と思われるような症状が、三世・四世に現れている可能性があり、国及び県に対して至急の調査依頼を求めているという話が印象的でした。富山県においても、調査して確認することが喫緊の課題であると認識しました。

爆心地、ドーム、元安川を歩く

 2日目の28日は、平和記念公園周辺を二十数年ぶりに訪ねました。先ずは爆心地である島外科内科病院前にある碑を観ました。外国人観光客も多く見学に訪れておられました。晴れ渡る上空にエノラ・ゲイの姿が74年前に立ちはだかっていたことを思うと、胸の苦しみを感じました。続いて原爆ドーム。核兵器廃絶と恒久平和を求める誓いのシンボルとしての威容を感じました。続いて元安川河川敷。そこは正に多くの被爆者が水を求めて飛び込んだ場所であり、救援援護に赴いた兵士たちが死傷者を掬い上げた場所です。穏やかな川の流れに、時の流れを重ねてみました。原爆の子の像では鐘を鳴らして、亡くなった子供たちの霊を弔い、平和の灯では全世界からの核兵器の廃絶を誓い、原爆死没者慰霊碑では「安らかにお眠りください 過ちは繰り返しませぬから」と祈りを捧げ、誓いを新たにしました。
 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館では、厳かな雰囲気の中で、県内原爆死没者の遺影と映像画面を通しての対面。自由に閲覧できるシステムに感動しました。前日に広島の二世の方からの推奨を受けていただけに、期待していた以上の感銘を受けました。

死傷者を救い上げた棒の現物に涙する

 最後に訪れたのが広島平和記念資料館でした。夏休み期間中ということもあり、多くの観覧者の中、新潟出身のガイド(渡辺さん)の案内のもとに、館内を巡りました。地下からの観覧が、全容把握には効果的であったと思います。元安橋の高熱で湾曲した橋脚は、象徴的でした。川から死傷者を掬い上げる引っ掻き棒は、現物として展示されています。事前に聞き及んでいた話を彷彿させるものであり、心ならずも涙腺を潤しました。多くの被爆者の手による絵画は、苦悩の中で描き切れなかったであろう情景を連想させ、より一層の惨状を訴えかけて来ました。
 今回の現地を見聞して得た新鮮な感動を、今後の富山県内での各種の活動の場で反核平和運動のために活かしたいと思いました。