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 核兵器廃絶をめざす富山医師・医学者の会(略称:反核医師の会とやま)は、核兵器の廃絶と戦争のない平和な社会をめざす医師、歯科医師、医学者の団体です。1989年の結成以来、特定の政党に偏らず、ささやかではありますが粘り強く活動してまいりました。2011年3月の福島第一原発事故を経験した今、「核の平和利用」は幻想であり核兵器同様人類と共存できないものとして「反原発」の立場を明確にしています。

「2023年 被爆者の講演のつどい」を開催

当会は9月23日、広島原爆被爆者の飯田國彦さんを迎えて講演会を開催しました。
講演会の動画を公開しますのでぜひご覧ください。

2023年 被爆者の講演のつどい
「広島原爆の実相から観る世界恒久平和への道」

お話しする人:飯田國彦さん(広島原爆900m被爆者、原爆孤児、被爆体験証言者)  
日 時:2023年9月23日(土・祝)午後2時~4時  
会 場:富山電気ビル8号室  
⇒当日の資料はこちらをクリックしてください

声明

福島第一原発の「ALPS処理水」海洋放出を中止し汚染水の発生を抑える技術の開発促進を求めます

 政府は8月24日、東京電力福島第一原子力発電所において「ALPS処理水」の海洋放出を開始しました。処理水の処分方法をめぐって様々な科学的手法が提案されていたにも関わらず、政府は海洋放出ありきで他の提案をまともに検討することなく、漁業関係者との約束を反故にしてまで放出を強行したことは断じて許せません。一刻も早い放出中止と、海洋放出に拠らない処分方法の再検討を求めます。

 政府は海洋放出を安全とする根拠として、トリチウムなど放射性物質の濃度が国際基準を下回ることをしきりに強調しますが、どれだけ希釈しようとも放射性物質の総量は変わりません。トリチウムは体内に蓄積されることによる内部被ばくの影響がより深刻と考えられています。総量を問題視して対策を講じるべきであるのに、濃度の問題に論点をすり替えたことは、国民に対する背信行為に他なりません。

 政府は海洋放出を今後約30年継続するとしていますが、処理水の元となる原発汚染水の発生を抑える技術は、あの過酷な事故から12年経過した現在も完成しておらず、汚染水は今も大量に生じています。これでは海洋に放出されるトリチウムの総量は今後もますます増加していくばかりです。効果が限定的で、そもそも長期運用を見越していない「凍土遮水壁」ではなく、汚染水の発生を根本的に抑える技術開発の促進こそ、政府が本気になって取り組むべき施策ではないでしょうか。

 放射性物質による環境汚染は決して「風評被害」などではありません。政府は自らの行いに対する責任の重大さを認識し、海水や海産物の濃度測定にとどまらず、周辺生物の育成状況の調査や、人間の放射線被害に関する健康観察など、長期にわたりその責務を果たしていかなければなりません。

2023年8月25日
核兵器廃絶をめざす富山医師・医学者の会 世話人会
世話人代表 金井 英子

講演会「原発固執で滅びる日本」を開催

当会は8月11日、市民公開講演会「原発固執で滅びる日本」を開催しました。
当会会員限定で講演会の動画を公開します。視聴を希望される会員の方は
当会までメール(kakuhaizetu-toyama@doc-net.or.jp)または電話
(TEL:076-442-8000)でご連絡ください。

市民公開講演会「原発固執で滅びる日本」
 ~電力不足も料金高騰も産業壊滅も全て原発が原因だった~

講師:古賀茂明 氏(政治経済アナリスト、元内閣審議官・元経済産業省官僚)
日 時:2023年8月11日(金・祝)14:00~15:45 
会 場:ホテルグランテラス富山3階清風の間(講師は会場で講演) 

  講演会の動画視聴は下の画像をクリック
  (当会会員限定、視聴にはパスワードが必要です)
   

 

 

「映画上映と被爆者の講演のつどい」を開催

当会は8月11日、映画『チェルノブイリ28年目の子どもたち』上映と被爆者の講演のつどいを開催しました。
講演会の動画を公開しますのでぜひご覧ください。

「この腕の中で いとこは息絶えた」
   ~戦争も核兵器もない世界を求め被爆体験を次世代につなぐ~

お話しする人:児玉三智子さん(日本原水爆被害者団体協議会 事務局次長)  
日 時:2022年8月11日(木)午後2時~4時  
会 場:富山電気ビル(児玉さんはリモートで講演)  
⇒当日の資料はこちらをクリックしてください

おすすめの記事(会報より)

<2021年8月5日 第55号 富山県被爆者協議会・被爆証言集「想い」から>

 舟坂さんは「兵隊さん」ですが広島での直接被爆者です。爆心地より700m地点で被爆しましたが、コンクリートの建物で奇跡的に助かり、翌日の8月7日には爆心地を歩いて”地獄絵図”を目の当たりにしました。
 被爆証言の執筆にあたっては、行動を共にした同僚を訪ね、当時の足どりを2人で確かめ合いながら語り合ったといいます。原爆の凄惨さの正確な記録として、説得力のある証言です。

忌わしく恐ろしい思い出

舟坂 安則

 私は予備学生として昭和18年10月に入隊し、航空兵器整備を専修し、同19年6月から20年6月まで、東京で航空兵器生産の指導等の業務に携わった。
 そうして7月1日付で広島勤務を命ぜられた。当時は日本の主要都市はほとんど空襲に会い、まだ空襲を受けていない軍事的主要都市広島の空襲は時間の問題と考えられていた。広島へ赴任の前に家に立ち寄った時、両親の心配は大変なものであった。しかし当時私には、それ程悲壮感はなかった。私は1カ年の東京勤務で、大空襲は十分経験し、二度も焼け出された。私は両親に「例え空襲に会っても、死ぬことはないから、心配しないよう」と広島に向かった。当時の都市空襲はほとんど焼夷弾によるものであった。
 広島を全然知らない私は、1カ月早く広島に赴任した同僚(蜂須賀中尉)を頼って、下宿も彼と同じ宿(水亭旅館、広島市中島本町88番地、現在の平和記念公園で爆心より約150m)に入った。勤務の中国軍需監理局は広島市の中心街、八丁堀の福屋百貨店(地上8階、地下2階で軍、官で使用、爆心より約700m)の2階であった。下宿から福屋までは徒歩15分で、広島の有名な相生橋(丁字形の橋)を渡って通勤していた。

爆弾の直撃を受けたかと思ったが

 8月6日、朝礼の後、各職員はそれぞれ執務中であった。その時警戒警報は解除になっていた。突然ピカッと大閃光があり、ほとんど同時にド力ンと大轟音がして、全身なぐられたような衝撃を覚えた。

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