<2021年8月5日 第55号 富山県被爆者協議会・被爆証言集「想い」から>
舟坂さんは「兵隊さん」ですが広島での直接被爆者です。爆心地より700m地点で被爆しましたが、コンクリートの建物で奇跡的に助かり、翌日の8月7日には爆心地を歩いて”地獄絵図”を目の当たりにしました。
被爆証言の執筆にあたっては、行動を共にした同僚を訪ね、当時の足どりを2人で確かめ合いながら語り合ったといいます。原爆の凄惨さの正確な記録として、説得力のある証言です。
忌わしく恐ろしい思い出
舟坂 安則
私は予備学生として昭和18年10月に入隊し、航空兵器整備を専修し、同19年6月から20年6月まで、東京で航空兵器生産の指導等の業務に携わった。
そうして7月1日付で広島勤務を命ぜられた。当時は日本の主要都市はほとんど空襲に会い、まだ空襲を受けていない軍事的主要都市広島の空襲は時間の問題と考えられていた。広島へ赴任の前に家に立ち寄った時、両親の心配は大変なものであった。しかし当時私には、それ程悲壮感はなかった。私は1カ年の東京勤務で、大空襲は十分経験し、二度も焼け出された。私は両親に「例え空襲に会っても、死ぬことはないから、心配しないよう」と広島に向かった。当時の都市空襲はほとんど焼夷弾によるものであった。
広島を全然知らない私は、1カ月早く広島に赴任した同僚(蜂須賀中尉)を頼って、下宿も彼と同じ宿(水亭旅館、広島市中島本町88番地、現在の平和記念公園で爆心より約150m)に入った。勤務の中国軍需監理局は広島市の中心街、八丁堀の福屋百貨店(地上8階、地下2階で軍、官で使用、爆心より約700m)の2階であった。下宿から福屋までは徒歩15分で、広島の有名な相生橋(丁字形の橋)を渡って通勤していた。
爆弾の直撃を受けたかと思ったが
8月6日、朝礼の後、各職員はそれぞれ執務中であった。その時警戒警報は解除になっていた。突然ピカッと大閃光があり、ほとんど同時にド力ンと大轟音がして、全身なぐられたような衝撃を覚えた。 自分では、とっさに爆撃された時の構えとして、床に身を伏せて両手指で目と耳を塞いだつもりだった。後で顔や腕の出血や打撲の跡からみると、床にかなり強く叩きつけられたものらしい。それから広島では原爆のことを「ピカドン」と呼んだが、正にあの広島の大惨事は一発の大閃光と大轟音によって起きたのであった。 ※被爆場所(福屋百貨店2階、爆心地から700m、鉄筋コンクリート造り) やがて私達は火の手を避けて川岸に出ることができた。そこには先に避難して来ていた人もたくさんいたし、後からも続いてきた。自分達の着いた川岸から離れた所に橋があった。橋は丈夫な橋であったが、橋に連結する道路の両側は火の勢いが強く渡れなかった。 すさまじい姿の人たちに驚愕 「早く退避せよ!」の怒号で目が覚めた。救援に来た陸軍の軍人であった。かなりの時間眠っていたらしい。隣には蜂須賀もいた。周囲を見廻して目に映った人たちの姿は、今まで見てきたものより遥かにすさまじいものであった。血みどろの人、被服が爆風で剥ぎとられ半裸の人、全裸の人、火傷の皮膚が剥がされ雑巾のようにボロボロに垂れ下がっている人、髪が乱れ下がった幽霊のような女性……等で恐ろしく見えた。おそらく市内を避難している間は自分が夢中で他人の状態が分からなかったのと、火傷の症状が時間が経つにつれて、日射と発汗によってすごく変化したのだろう。 ※避難場所と黒い雨…驟雨(しゅうう)現象 休んでいる所から市内の火災がよく見え、全く燃え放題であった。6日の晩は一晩中赤々と燃えていたが、中心街は燃え尽きたものか、静まった所がかなりあった。私は外の方へどんどん広がる炎を見ながら、B29百機の焼夷弾による東京の火災より、ピカドン1発で市民を無力化して、燃え放題の広島の火災が大きいことを知り、ピカドンの怖さに寒気を覚えた。私たちは一晩中赤々と燃える炎を見ながら、横になっていた。 娘を探す両親に遭遇、遺骨に案内した 7日の白ける頃は、街は鎮火していた。火炎乱舞の街は一夜明けて静寂の焦土と化していた。蜂須賀と広島駅の近くを通って市内に入り、先ず八丁堀の福屋へ行った。市内はわずかに鉄筋コンクリートの建物の外廓だけを残して全くの焦土と化していた。福屋は8階の外廓はそのまま残っていた。2階に登ってみたが、机等の器具等は何一つないガランとした焼け跡であった。全く変わり果てた部屋をしばらく呆然と見廻していたが、その間誰も入って来なかった。黙って2人は外へ出た。 それまでの焼け跡の灰と明らかに違った 福屋から出て下宿に向かったが、街は見渡す限り焦土と化し、道路上には所々に死体が横たわっていた。恐らく焼け跡の下には、数知れぬ死体が埋まっていることだろう。途中相生橋にさしかかった。橋はかなり傷んでいたが通行には支障がなかった。相生橋は後日救援隊により、焼けただれた死体の一時収容所として利用されたそうである。石づくりの欄干は爆風圧で並んだようになぎ倒されていた。橋から下をのぞいている人に習って川を見おろすと、数人の死体の浮いているのが見られた。異様だったと今でも記憶しているのは、背の白くなった魚が泳いでいたことである。恐らく熱線か爆風圧によって、鱗が剥がれたか、傷ついたことによるものであろう。 4日後に視察に来た同僚が原爆症で死亡 会社の寮に着いたとき、既にけがや火傷の人が多数収容されていた。会社関係の人達らしい。蜂須賀は監理官として仕事もしていた関係で会社の知人も多かったが、私は知人もなく心苦しかった。傷が落ち着いてからは夜眠る時だけ隅の方で休ませてもらった。火傷の手当てはほとんど赤チン治療であった。火傷は2、3日経つと化膿が始まり、赤チンで膿を拭きとっていたようだ。背中の火傷は腹這いのままであり、人によっては横になれない人もいた。化膿が広い範囲まで及び夏の暑い時季であり、部屋は特有の臭気で満ちた。化膿したところに蝿が産卵すると聞いたが、今日では考えられない話である。 終わりに 47年前の私の目と耳と心に刻み込まれた原爆の「恐ろしい思い出」は、私にとって死ぬ迄、消すことのできない思い出である。しかし、それを筆に表すとなると全く不安であった。私は被爆時に行動を共にした、ただ1人の友人、峰須賀(名古屋で弁護士開業)の許へ行き、2人で被爆時の足どりを、広島県庁に照会して貰った当時の市内地図で検討し、記憶を語り合った。47年前の記憶であり特に地理の上で間違いあればご容赦願いたい。
「ピカドン」の発生時刻は8時15分である。気が動転していて、すさまじい閃光は何によるものか分からなかったが、1回の大轟音と爆風圧から、福屋の近くに爆弾の直撃を受けたものと思った。当時は市民の多くは、自分の近くが直撃されたと錯覚したようである。
床に伏せていた私はしばらくして顔をあげたが室内は暗く何も見えなかった。爆風で飛散した粉塵で光が遮られたためであろう。やがて粉塵も静まり周囲はだんだん明るくなった。その時の眼に映った室内の情況を見て全く唖然とした。
正にメチャメチャである。天井は落ち、机、椅子、器物等は飛散し、あちこちから、呻き声や助けを求める悲鳴が聞こえてくるではないか。静かな朝が一転して、阿鼻叫喚の地獄と化すとはこのことであろう。恐ろしかったのは、近くの女子事務員は外傷が見当たらないのに、呼んでも応えなかった。自分と余り離れていない窓近くの課長(陸軍大尉)も即死状態であった。位置によって極めて大きな爆風圧、または飛んできた器物の直撃を受けたことによるものでなかろうか。
私は蜂須賀を探した。峰須賀も私を探したようだ。2人はお互いの安全を確認して喜び合った。峰須賀の負傷は私より大きく、左耳上に大きな切り傷を受け出血が大きかった。もちろん2人共露出部分の頭、顔、腕には、ガラス片等が無数に突き刺さり出血していた。3階の職員は、重傷者が多いようであった。中にはショックのためか、呆然自失の状態でただ黙って座っていた者もいた。元気な人は少ないように感ぜられた。
窓ガラスは全然なく、外の様子は木造家屋が押しつぶれたようになって見えた。近くで消防屯所であろうか、ガソリン引火による猛烈な火災が吹き上がっていた。この状態では福屋も火が燃え移ってくる危険性を感じた。「外へ出ないと、ここにも火が移ってくるぞー」と大声で呼びかけ階段へ向かった。記憶では階段はあまり雑踏していなかったように思う。3階以上の被害もかなり大きかったのではなかろうか。
外に脱出して見ると、2階から見たよりも家屋の倒壊はひどかった。もしピカドンが15分以上早かったら、中国軍需監理局の勤務者はほとんど、通勤途中でやられていたろう。私たちは、広い通りをどんどん北の方向に歩いた。
広島市は広島湾に面したデルタ地帯であり、太田川が6つの川に分流して市内を流れているため橋が多い。従って市内から逃れるためには橋を渡らなければならない。私たちは人の群れに混じって時には方向を変えて火を避けるように進んだ。道の両側の家は倒壊しており、下敷きになり助けを求める者もあった。助け出せる人は数人で協力して助けたが、下積みになったり、柱に挟まれ引き出せない人もあった。非情のようだが火がどんどん移ってくるのでどうしようもなかった。人の群れの中に幼児も混じっていたのを覚えているが、無事脱出できたかどうか分からない。
近距離のため爆風圧強し、熱線の被害なし、窓ガラス破片による切り傷者多し、爆風による失神者有り脱出できず焼死、窓際で即死者あり、ショックで立てない者あり。
橋は蜂須賀と検討した結果、栄橋と思われる(県庁へ照会したところ当時も鉄筋コンクリート造り)。水量も多く、川幅も大変長く感じた。川岸の家の近くまで火が広がってきており、もはやその川岸は安全地帯ではなく、対岸へ渡る方法を考えなければならなかった(広島原爆戦災誌…栄橋の上はイワシを並べたように死人や重傷者が倒れていた。泉邸の東側では太田川につかる人や、舟で避難する人もあったが、川に入った人はほとんど死んだ…とある)。
幸い2人は骨折などの大きな傷もなく、負傷しているが泳げる状態であった。あの場合は安全地帯に逃げるには泳ぐ以外に方法がなかった。川岸にいる人の群はここは危険と分かって不安だがどうしようもなくオロオロしている人、疲れ切って川岸にうずくまり気力を失い放心状態の人等で、泳ごうとする人はいないようであった(後で川岸の人は救援の暁部隊の舟で対岸へ救出されたようである)。峰須賀と泳ごうと川に入っていった。2人共悲壮な決心である。私も峰須賀も横泳ぎで泳いだ。必死になって泳いだ。川幅も広く水量があるので流され、大変きつく苦しかった。かなり流されたようだ。対岸へ泳ぎ着いた時、疲れと安堵感で倒れ込んでその後覚えがない。恐らく気を失って眠り込んだもののようだ。
2人は起きて、東練兵場へ向かった。やがて衛生兵に案内され仮救護所で応急治療を受けた。私の傷口の大きい頭と両手には包帯を巻いてくれた(復員後も痛みがあり、不二越病院で後頭部と右手首を切り開きガラス片を取り出す)。治療は総て切り傷は赤チン、火傷は油が塗られていた。治療の後、蜂須賀と近くにあった寺院の山門の石段に腰を下ろして休んだ。2人はピ力ドンの際に、帽子、上衣、短剣は吹っ飛び失くしたが、半袖シャツ、ズボン、革靴は身につけていた。当日は晴天でズブ濡れの衣服もすぐ乾燥した。山門の前を傷ついた人が仮救護所へ治療を受けるため通り過ぎた。
午後3時過ぎ頃であろうか、陸軍の兵が続々と通過していった。その人達は上半身裸で作業していたのか、火傷の範囲が広く、実に痛々しかった。特にその頃は火傷がひどくなり、目も塞がり、顔は人の判別ができぬ位に膨れあがっていた。戦闘帽で熱線を遮ったものか、頭の真ん中が丸く毛が残っていた。彼等はみな近寄って来て水を求めた。火傷の人に水を呑ますなと注意されていたので最初は拒んでいた。しかし火傷の症状も時間と共にひどくなり、あまりの痛々しさに茶碗で水を呑ませようとしたが、口が開かない位に唇がはれあがって呑めず、唇の上に垂らすだけであった。この人たちは東練兵場へ行くよう命令されたのであろう。普通の人はあんな症状では歩ける状態ではないのにと、その精神力に涙が出た。
私たちの周りも避難した人で一杯になった。火傷の人は時間の経過と共に痛みがひどくなるのであろう、呻き声が痛々しかった。境内で休んでいる時に、少し雨が降ったが広島の各地で降ったような黒い雨の記憶はない。小さい雨で感じなかったのかも知れない。
・爆発による黒煙と火災の煤煙が雨に溶け、黒い雨として降る。放射能を含むため直接被爆者と同じ症状になる。
・風の方向によって黒い雨は降り、市の北北西が多く、自分が避難した東練兵場・二葉山山麓一帯では降雨は少なかった。
福屋から少し出た時、偶然か、それとも神の引き合せか、昨日の即死状態の女子事務員の両親が娘を探しに福屋へ来るのと出会った。もちろん面識はなかったが、娘のことを知らないかと聞かれ、驚きそして一瞬戸惑った。しかし彼女のことをはっきり知っているのは自分しかいないし、この機会を逃したら両親は娘の遺骨を引きとることができないと思い、両親を案内して福屋に引き返し、娘の遣体を知らせてあげた。遺体は白骨状態に近かった。幸いに両親は娘のバンドの金具に見覚えがあり娘に間違いないと確認された。両親は6日一日中と、7日未明から郊外の避難場所を駆け巡り、娘や娘の友人を探したが、全然手がかりが無かったそうである。「勤務場所が市の中心部であり、生存はしてないだろうと覚悟はしていた。」と父親は比較的冷静であり、礼を述べてくれた。しかし遣体を見て父親に寄りかかり泣き崩れる母親の姿が気の毒で見ていられなかった。
丁字形の垂線に当たる橋を渡って中島本町の下宿に着いた。下宿は全く木片一つも残っていない完全燃焼の焼け跡であった。今まで通って来た焼け跡の灰と違って、かさの低い白い灰であった。焼け跡には下宿の女主人と出勤前の1人と、飼っていた描がそれぞれ白骨の状態で灰の中に確認できた。爆心地は4000度近い輻射熱といわれているので、爆心に近いこの辺りは自然発火も作用して短時間で燃え尽きたのでなかろうか。更に裏に造ってあった防空壕を調べたところ、地下深く堅率な作りのため、中の保管物は完全な状態であった。自分が赴任時に持参した外套、衣類は完全に残り、今もその時の入れ物の行李は我が家に残っている。下宿の2人の子(女学生、小学生)は市外へ避難し助かり、親戚に引きとられたと後で聞いた。
下宿を失った2人は、蜂須賀が軍需監理官として担当している軍需工場である東洋製缶の寮に移ることにした。寮のある己斐方面に向かって天満町と思われる辺りを通って行ったが、道路には死体があちこちに転がっていた。人の死体の中に、馬の死体を2、3見たが、内臓が火で膨張する為か、腹が風船のようにふくれていた。橋を渡るとき川に多数の死体が浮いているのが見られた。
4日後に東京から同僚が視察に来た。私は案内して廻ったが、その同僚が1年後に原爆症で死亡したと聞いている。第2次放射能によるものと思われる。救援活動のため、市内で行動した暁部隊その他幾多の救援活動に従事した人たちの中には、原爆症で倒れた人が多く出たのではなかろうか。
傷が落ち着いた私は、寮に迷惑をかけるのが心苦しく、15日の陛下の「終戦のおことば」の放送を聞き、寮を出る決心をして蜂須賀と別れた。幸い郊外の草津(宮島線沿線)に下宿を求めることができ、下宿から軍需監理局(被爆後、厳島のお寺に移転)に通勤し終戦後の軍需工場の処理指導の業務に当たった。2週間ほど下宿に世話になり、9月1日復員した。
大江健三郎著エッセイ「ヒロシマ・ノート」の中に「世界に知られているヒロシマ・ナガサキは、原爆の威力についてであり、原爆の被害の人間的悲惨は知られていない」と、述べている。つまり水爆に比べてもはや広島型原爆は大した威力のない爆弾である。そのために被った人間の悲惨さは同様にたいしたものでないと無視され忘れ去られようとしているのではなかろうか。
世界で原爆を投下されたのは日本だけである。今こそ広島・長崎の被爆者は生存者・死亡者を含めて、原爆投下によってこのように悲惨な被害を受け、今も尚苦しんでいることを世界に周知徹底させなければならない。それが被爆者の語り継ぎ活動の意義である。
書き終わって、ホッとしたと共に、感慨無量というのが実感である。「原爆の恐ろしさ」を少しでも理解していただければ本当にありがたい。私達は、核を用いるような残酷・非情な戦争が決して繰り返されないことを心より祈る。