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 核兵器廃絶をめざす富山医師・医学者の会(略称:反核医師の会とやま)は、核兵器の廃絶と戦争のない平和な社会をめざす医師、歯科医師、医学者の団体です。1989年の結成以来、特定の政党に偏らず、ささやかではありますが粘り強く活動してまいりました。2011年3月の福島第一原発事故を経験した今、「核の平和利用」は幻想であり核兵器同様人類と共存できないものとして「反原発」の立場を明確にしています。

2022年 映画上映と被爆者の講演のつどい

日 時  2022年 8 11 日 (木・) 14:00~16:00
会 場  富山電気ビルデイング 5階中ホール
       ※オンライン参加も可能
       ※参加無料、どなたでも参加できます
主 催  核兵器廃絶をめざす富山医師・医学者の会
後 援  富山県被爆者協議会、富山県被爆2世・3世の会、

     富山県保険医協会

       ※このつどいの案内チラシはこちら

 

【第一部】映画「チェルノブイリ28年目の子どもたち」

14:10~15:00

1986 年に発生したチェルノブイリ原発事故から
28 年が経過した 2014 年の現地を取材した
ドキュメンタリー映画です

 

 

【第二部】講演「この腕の中で いとこは息絶えた」

15:05~16:00
お話しする人:児玉 三智子さん
(日本原水爆被害者団体協議会 事務局次長)
 ※児玉さんはリモート(遠隔地)で講演されます

 

 

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※会場ではマスクを着用ください。会場受付において手指消毒と検温を行いますのでご協力ください。
※新型コロナウイルス感染拡大により、会場参加を中止してオンライン参加のみとする場合があります。ご了承ください。

核兵器廃絶をめざす富山医師・医学者の会
第17回 定期総会 (オンライン出席も可能)

日  時  2022年811日(木・祝)16:10~16:40
会  場  富山電気ビルデイング4階3号室
出席対象  当会会員

主な議事  この間の活動報告と次期活動方針案
      20~21年度決算と22~23年度予算案

      ※定期総会の案内チラシはこちら


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ロシアの核兵器による威嚇行為に抗議し、ウクライナからの即時撤退を求める

2022年3月2日
核兵器廃絶をめざす富山医師・医学者の会 世話人会
世話人代表 金井 英子

 

 2月24日、ロシア軍はウクライナに侵攻し、キエフやオデッサなどの都市において、住宅地など民間施設も含めた攻撃を開始しました。国連憲章、国際法を踏みにじり、多くの人々の命と生活を奪う行為は、いかなる理由があろうとも許されません。私たちはロシアによるウクライナ侵攻に強く抗議し、即時撤退を求めます。

 ロシアの軍事行動に対し国際社会がノーを突きつけるなか、プーチン露大統領は自国が強大な核保有国であることを誇示し、欧米諸国から突きつけられた経済制裁への対抗策として、核兵器の使用をも辞さない姿勢を示しています。これは核戦争にも繋がりかねない極めて危険な国際社会に対する脅迫行為であり、断じて許されません。

 国連において2017年に採択された核兵器禁止条約は、核兵器廃絶を願う多くの国の賛同を受けて昨年1月に発効されました。この条約を力に、世界のあらゆる地域で、核廃絶に向けた歩みが進められています。核大国であるロシアには、核兵器の使用や威嚇ではなく、他の保有国とともに、核廃絶に向けたプロセスに歩み出すことが求められます。

 ウクライナ有事を受け、日本国内に核兵器を配備する「核共有」の議論が一部の政治家から取り沙汰されていることを強く憂慮しています。日本政府は核兵器の保有・製造・搬入を禁ずる非核三原則を堅持し、保有国と非保有国の「橋渡し役」として、核廃絶に向けた国際的なリーダーシップを発揮することを切に願います。

(当会は2022年3月2日にこの声明を在日ロシア連邦大使館および日本国の首相官邸、内閣官房に送付しました)

おすすめの記事(会報より)

<2021年8月5日 第55号 富山県被爆者協議会・被爆証言集「想い」から>

 舟坂さんは「兵隊さん」ですが広島での直接被爆者です。爆心地より700m地点で被爆しましたが、コンクリートの建物で奇跡的に助かり、翌日の8月7日には爆心地を歩いて”地獄絵図”を目の当たりにしました。
 被爆証言の執筆にあたっては、行動を共にした同僚を訪ね、当時の足どりを2人で確かめ合いながら語り合ったといいます。原爆の凄惨さの正確な記録として、説得力のある証言です。

忌わしく恐ろしい思い出

舟坂 安則

 私は予備学生として昭和18年10月に入隊し、航空兵器整備を専修し、同19年6月から20年6月まで、東京で航空兵器生産の指導等の業務に携わった。
 そうして7月1日付で広島勤務を命ぜられた。当時は日本の主要都市はほとんど空襲に会い、まだ空襲を受けていない軍事的主要都市広島の空襲は時間の問題と考えられていた。広島へ赴任の前に家に立ち寄った時、両親の心配は大変なものであった。しかし当時私には、それ程悲壮感はなかった。私は1カ年の東京勤務で、大空襲は十分経験し、二度も焼け出された。私は両親に「例え空襲に会っても、死ぬことはないから、心配しないよう」と広島に向かった。当時の都市空襲はほとんど焼夷弾によるものであった。
 広島を全然知らない私は、1カ月早く広島に赴任した同僚(蜂須賀中尉)を頼って、下宿も彼と同じ宿(水亭旅館、広島市中島本町88番地、現在の平和記念公園で爆心より約150m)に入った。勤務の中国軍需監理局は広島市の中心街、八丁堀の福屋百貨店(地上8階、地下2階で軍、官で使用、爆心より約700m)の2階であった。下宿から福屋までは徒歩15分で、広島の有名な相生橋(丁字形の橋)を渡って通勤していた。

爆弾の直撃を受けたかと思ったが

 8月6日、朝礼の後、各職員はそれぞれ執務中であった。その時警戒警報は解除になっていた。突然ピカッと大閃光があり、ほとんど同時にド力ンと大轟音がして、全身なぐられたような衝撃を覚えた。

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