被爆の苦痛を抱いて
広島・長崎ヒバクシャ証言集「想い」(2020.7)より
長崎編 田中春子
私は当時14才、長崎三菱兵器工場(大橋工場)に勤務していました。爆心地より1.4キロの地点の工場内で被爆して建物の下敷きになり、私の隣にいた仲間も皆死にました。
目を覆いたくなる混乱の中から這い出して泣きながら母の名を呼び、方向もわからずに走りました。辺り一面、火の海で死体はゴロゴロ山のように重なり合い、馬も腹を見せて焼死し、何が何だかわからずに死に物狂いで線路を伝って走りました。
家は工場の位置から東の金比羅山の裏にあたるのですが、当時線路を反対の長与へ向けて走っていました。
行けども行けども我が家に着けず、翌日途中で会った消防団の人に教えて貰い戻ることが出来、家族も大変驚き喜んでくれました。
その時の私は髪は焼けてパンチパーマのようで身体はほこりと泥で汚れていましたが、 幸いに怪我はありませんでした。
母は心配し、父の兵児帯を持つて、「春子はもう死んだか息絶え絶えになって苦しんでいるに違いない。」と言って私を探しに行ったそうです。
46年経った現在も私は甲状腺の病気に悩まされ、 心臓発作を繰り返しとうとう乳癌になって手術をしました。
診療して下さるお医者さんは皆一様に「貴女が生きていることは奇跡に近い」と言われます。結婚して流産ばかりの繰り返しでした。子供がやっと宿った途端主人から「原爆を受けた身体だから不安だ。処置してくれ」と何度も言われましたが、私はやっと授かった我が子だから生みたい一心で頑張り通し男児を産み、今は25才の元気な青年に成長しました。小学低学年の頃鼻血を良く出して心配しましたが、それも治り、中、高校はマラソンの選手として活躍しました。現在社会人として逞しく生きています。
46年間誰にも話したくない、あの悲惨な光景。 苦しみもだえて死んで行った人々を忍ぶ時、涙が出て胸が一杯になります。
今も身体の不調と戦っていますが、 消そうにも消せないあの忌わしい体験は、二度と繰り返さないよう語り継いでいかなければなりません。
今日の平和と繁栄を見ずに亡くなった方々の御冥福を心からお祈り致します。