「ピカドン」で血の町死の町
広島・長崎ヒバクシャ証言集「想い」(2020.7)より
広島編 岸川義一
思い起こせば昭和20年8月6日朝8時15分、広島市民の頭上に原爆が投下され、何十万の人が閃光に焼かれ、打ちのめされて吹き飛んだ。
原爆投下後、3日目に焼け野原となった広島市へ。 我々、楠部隊(軍通信任務)が和歌山県笠田町より、当時国鉄の無蓋貨車に乗って広島駅に到着した。
待合室は怪我人で溢れ、近くの元安川には人の死体が無数に浮かび、路端には多数の死体が目を覆うばかりに横たわっていた。
我々は生き地獄の中を通り抜け、目的地の広島中央電信電話局にやっと到着した。
宿舎である建物の地下室、 屋上には柱に寄りそったままの姿で遣体となった人々の多いのに驚いた。まだあどけなさの残つた学徒動員の生徒達が含まれていたのであろうか?
付近の学校には遺体や怪我人が所狭しと並び、我々の目前で何人も死んでいった。防護服を着用していても放射能を受けた箇所は皮膚がただれ落ち、見るも痛々しく、無残で見るに忍びない姿であり、これぞ敗戦国だと思った。
あらゆる建物の窓ガラスは壊され、電車が吹き飛んで変形した破壊物の間からあちこちに炎がメラメラと見えて来るのは、遺体を処理する焼炎である。
市内を歩く人はほとんどなく、3日目の晩に市内の道路を歩行していると、 道端の遺体から燐が燃え青白い光を放ちながら、小さい火の玉が無数に飛んでいるを見た。
約2週間位後始末をするために居たが、広島は廃虚の町と化し、広島に居た多くの人が、悲しみ、憤り、恨みを込めて死んでいった事を思うと、今もどこかの国で続けられている核実験に断固と反対せざるを得ない。
あの時の生き地獄をこの目で見、体験した恐怖は、今も脳裏にはっきりと刻まれている